沖縄からの使者

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一番遠くから福島に支援に来てくれたのは、沖縄から来た宮城さんかな。
沖縄の空気を、南相馬に届けてくれた。日本は広いけど、それぞれに故郷があって、愛情を感じたよ。
沖縄に、行ってみたくなったさ〜!

宮城さん

 私が南相馬市の支援活動に参加したのは、2012年6月17日から6月23日の一週間九州ブロックからの派遣で「えんどう豆」の活動支援に参加しました。

 仲間のみなさんは、缶バッジやさおり織りなどの製品製作に集中して取り組んでおり、お互いにコミュニケーションを図りながら支えあう姿、また、職員のみなさんも仲間のペースにあわせ支援を行いながら妥協のない商品管理を行っている姿が印象的でした。

 支援活動で感じたことの一つに、地震、津波に合わせて原発事故による被害はとてつもなく大きな被害だという衝撃をうけました。当時、立ち入りが制限されている小高地区の様子を見学させていただいた時に、震災当時のままの地区の様子に言葉はなく、住み慣れた家、地域に戻れない住人のみなさんの気持ちを思うと胸が痛みました。
 支援活動では、南相馬ファクトリーのそれぞれの事業所も見学させていただきました。
それぞれの事業所が一体となって、事業所の復興、地域での再スタートに向けて取り組んでいる様子に見習う点がたくさんありました。

 支援活動最終日に、青田理事長より震災当時から一年半経過した現在の状況に至るまでの話を聞かせていただきました。話を聞いて、過酷かつ選択が迫られる状況の中で今の自分だったら何ができるのだろうか、行動出来ただろうか、など様々な考えが頭の中を駆け巡りました。話の中で「災害には大小関係なく、災害が起これば必ず同じような(福島のような)状況は起こる。見過ごされてしまえば過酷な状況に陥る。」という言葉を聞いた時には、災害に対する意識、心構え、日々の支援の中での
課題点の検討と改善、そして何よりも日々の支援の取り組みの中での気づきと「働きかけ」が最も重要だということを感じ、支援活動に参加したことで、これまでの「災害」対する意識をもう一度考え、私たちの事業所も災害時における対策をいち早く検
討し行動し始めました。

 今回の支援活動に参加して強く感じたことは、「事業所があるということ」の大きさでした。これまで事業所の存在意義を深く考えたことはありませんでした。しかし、えんどう豆で働いている仲間、職員のみなさんの姿を見て、事業所があるということ、みんなと顔をあわせること、作業に取り組むこと、考えあうこと、「その時」これまでの状況が一変する出来事が起こったときに、行く場所があるという安心感は何よりも支えになり、普段からの体制づくりが備えにつながること、そして事業所で過ごす一日一日がいかに大切であるかということを感じました。
 「つないでいくこと」。支援活動で感じたことを伝えていくことが現場支援に参加した一人としてこれからもつないでいきたいと思います。

きょうされん沖縄支部
サポートセンターあすなろ
宮城僚太

みやぎ4

みやぎ3

宮城さん2

えんどう豆(南相馬)

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アズで〜す。
南相馬の「えんどう豆」を紹介します。
小さなアットホームな雰囲気の作業所です。

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 震災後、津波で海岸に近い集落は、家のコンクリートの基礎だけ残し、ふるさとの風景自体がなくなってしまいました。数日まであったあの風景を、もう見ることができないと思うとつらかった。津波は、人の過去さえ、奪ってしまうものでした。被災した現場に、自衛隊、消防、警察が入り、捜索と後片づけをしてくれていました。携帯、電話がつながらず、自宅待機。水道が止まり、テレビ、インターネットもだめ。街は自衛隊の車両が走り回っています。スーパー、コンビニも閉じて食料の入手が困難になり、ガソリンも買えず動きがとれない状態になりました。
 「えんどう豆」は、津波の被害はありませんでしたが、原発事故のため、メンバーは全国各地に避難しました。当時は、再開できないのではないかと本気で思っていました。失ってはじめて、えんどう豆と研修生、そしてふるさとの相馬、南相馬が自分にとって大切なものであったことを実感しました。

 南相馬市は、原発から20キロ圏内は「警戒区域」となり、住民は強制的に避難させられました。30キロ圏内は、「緊急時避難準備区域」となり、子どもや病院、要介護者が入らない事を求められました。それでも避難生活に耐えきれなくなった方の多くの人が、南相馬に戻ってきていました。障がいを持つ人たちの多くが、避難先での生活になじめず、戻ってきたおり、市内の福祉作業所は再開していきました。子どもがいる職員は避難してしまって再開できないでいる作業所もありました。「JDF被災地障がい者支援センターふくしま」の協力により、全国からボランティアが、南相馬に入り作業所を支えてくれました。えんどう豆は、6月に、同じ法人のビーンズより、職員を借りて再開しました。再開できたのはよかったのですが、やる仕事はありませんでした。震災前は、畑作業をしていたのですが、屋外での活動は放射線量の問題で心配があり、屋外での仕事は、今年も中止の予定です。

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(畑は、毎日、散歩に行く場所になってしまいました。)

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(神奈川に避難中のHくんの家族。)

 その後も、職員を募集しても集まらない状態が続きましたが、震災から2年が経過し、やっと職員も入り、落ち着いた状況です。でも、日常を取り戻したのかと言えば、決してそうではないと思います。震災は2年前のことだけれど、放射能とはこれからも付き合っていかなければなりません。避難する人と福島に残る人。福島を愛する気持ちと放射線から命を守るという気持ち。人の意見は分かれ、家族も別れて生活する現状。何も変えようとしない国。これらの問題を一人ひとりが抱えなければならい状態にあるのです。

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 しかし、毎日、えんどう豆に通ってくる純粋に生きている彼らの姿を見ると、私自身がパワーももらっていることに気付かされます。そして、この人たちの幸せだけは守りたいなぁと思うのです。過ちを繰り返してほしくないし、人の命と幸せを守る国であってほしいです。

釧路から

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JDF被災地障がい者支援センターふくしまから、南相馬にボランティアに入った人数は500人ほどで、延べ人数3,000人を超える。北海道から沖縄まで、応援してくれた皆さん、本当にありがとう!
今回は、北海道組の仲間からのメッセージだよ。

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私たちは平成24年3月11日から24日までの間に、行き違いの形で1週間づつ北海道釧路市から福島県南相馬市へ支援に入りました。行く前に、積雪が多いと聞いていた私たちは、手荷物に長靴を入れて空港を歩きました。いざ現地に到着するとほとんど雪が残っていなくて、損した気持ちになったことを今でも覚えています。

私たちが支援に入ったとき、日付は震災からちょうど一年。被災地の状況はメディアで放送されていることぐらいしか知らない状態で現地入りしたのですが、いざ自分の目で見てみるとそのときの爪跡が深く残っていました。文字通り、開いた口が塞がらなくなったのを今でも鮮明に覚えています。しかし作業所に入ると、現地の皆さんはとても明るく笑顔いっぱいで迎えてくれました。作業をしている利用者の方々も笑顔いっぱいに作業していました。私たちが少しでも元気を分けて帰れたらなと意気込んでいたのですが、逆に元気をいただくことになりました。しかし、その明るい笑顔に至るまでにはたくさんの困難があり、それを乗り越えて今の元気があることを教えてくれました。皆さんの復興に望む前向きな姿にものすごいパワーを感じ、自分たちも今まで以上に頑張らなくては、と感じました。私たちは「くしろぱんや」という店名でパン屋さんを営業しているのですが、”笑顔を届ける手作りぱん工房”という理念を掲げて日々営業しています。我々の作業所が目指すべき笑顔がそこにあるのではないかと痛感しました。

作業所の仕事が終わってから、グループホームの方にもお邪魔して利用者の方々とお話する機会があったのですが、自分の時間ができると、ふと震災のことを思い出してしまうことがあるようでした。なので、大変な状況の中でも作業所をすぐに再開したことに感謝をしていると話していました。職員は1年経過しても全く人が増えず、JDFの活動に助けられていると聞きました。

平成25年1月19日、釧路で行われたきょうされん道東ブロック職員研修会に、マッチング事業を担当されている和田さん、川前さんをお迎えして講演していただいたときに、震災から二年弱経過した今は、新しい職員が増えてきているがまだまだ人材不足であることを話しておりました。南相馬市に行き、皆さんの笑顔とあたたかさに触れ、釧路でもその雰囲気を広げていけたら良いなと考えています。ふくしまでの全国大会、全国のつながりの力でいい大会になればよいなと思います。

企業組合ウェルフェアグループ
鈴木 達
高橋 和樹

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南相馬市での支援活動に参加して

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神奈川から、支援に入った塩谷さん。
ずっと、福島を見続けて、心は共にあったよね。
くるみちゃんのTシャツも買って、神奈川の仲間と着てくれたよ。
みんな、福島が好きになって帰っていくよ。

しおのや

JDF、きょうされんの南相馬市への支援が始まったのは震災後すぐのことで、私が初めて南相馬を訪れたのは2ヶ月半後の5月の末でした。
それから今までに5回支援活動に参加させていただいています。
活動内容は、訪問調査と事業所支援です。

訪問調査では、障がい者(身体、知的中軽度)のご自宅、民生委員さん、区長さんのお宅を訪問し、色々な方のお話をたくさん伺うことが出来ました。
立場によっては、責任感や思いが強いほど深く傷ついていると感じました。
国、県、市の制度や補償金では補えないものがたくさんあります。
人の心に触れられるのは、やはり人なのだと強く思いました。
また、原発事故は身体の健康より先に「自分らしさ」を奪うということを知りました。

訪問調査を終え車で神奈川に帰る途中、首都高で荒川沿いから見える東京の景色を見ました。
1週間南相馬で見聞きしたことを思い返し、なんとも言えない複雑な気持ちになったのを覚えています。

事業所支援では、ビーンズ2回、えんどう豆、あさがおに1回ずつ支援に入りました。
初めて行く場所で支援活動ということで、不安と緊張がありましたが、どんなことでも、ほんの些細なことでもみなさんと共感できることを探しながらのあっという間の一週間でした。
利用者さんはカンバッチ作りや資源回収、メール便、仮設商店街のトイレ清掃などをそれぞれのペースで作業をしていました。
仕事があること、誰かの役に立っていると感じることが人にとってどれだけ大切かを知りました。

職員さん一人一人の決断と、日々の関わりの積み重ねにより利用者さんの笑顔が増え、利用者さんの存在と笑顔により職員さんはエネルギーをもらっている姿が見られました。
それから何度か南相馬に行くうちに顔なじみになり、共通の話題も増え、再会の喜びを感じられるようになりました。
また街のあちらこちらに思い出の場所が増えていき、好きな中華料理屋さんもでき、南相馬に愛着が湧いてきました。

南相馬の現状を見聞きし、感じたことを周りに伝えなければならないと考え、少しずつですが折に触れ実行しています。
そして、被災地を見ていない人へ自分の事としてとらえてもらえるには何をどう伝えたら良いのかはこれからも自分の課題でもあります。

活動に参加した中で強く感じたことは、「真実を知ろうとすること」の重要性と、「ひとりでは大変なことでもみんなでやると出来る。時には楽しく乗り切れる」ということでした。
「ひとりを大切にしつつ、たくさんの人とつながる」ということです。
これからの自分の仕事、人生に活かしていきたいです。

最後に、南相馬で働く職員の方々や利用者の方々とこれからもお互いを近くに感じられるような距離感でいられたらすごく嬉しいです。

神奈川県 第三シャロームの家
塩谷祥策

さくら

南相馬へ3度入って

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「おかえり!」と言われたほど、福島になじんでしまった松川さん。
震災で大変な事も多かったけど、貴重な出会いがいっぱいあります。
支援に来て、支援に来た人が「ありがとう」と言って帰ります。
モノじゃない、お金じゃない、人と人とのつながりの大切さ。

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南相馬へ3度入って
 きょうされん、JDFの活動を通して南相馬へ行かせてもらいました。この活動がなかったら被災地へ行くことはなかったんじゃないかと思います。テレビや新聞だけじゃなく、自分の目で見て感じることが出来て本当によかったです。
 はじめは職員の不足や忙しさを感じては何も出来ない思いで一週間を終えていました。今は職員が充実しつつあり、この活動が3月までで終わる事を実感しました。
 ぴーなっつを拠点として、それぞれの施設に入りますが私はすべて、えんどう豆に行くことが出来ました。えんどう豆の雰囲気はとても暖かく、仕事と楽しさ、両方ある所で理想的な施設でした。そんな所に支援に入る事が出来て嬉しかったです。今は頼もしい職員さん達が揃い、安心と支援が終わる寂しい気持ちです。
 いつも受け入れてくれた南相馬のなかまや職員の方達と会えるのが楽しみで、そういう気持ちで行ってはいけないんじゃないかと思う事もありました。でも、私にとって皆さんと会えた事が本当に嬉しくて、大好きで、また会いたいと思うのです。私も地元、大分が好きです。南相馬に住んでいる皆さんと同じだと思います。だから離れていても繋がっていたいです。これからも一員としてよろしくお願いします。
大分 べっぷ優ゆう 松川仁美

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わいわい作業所

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アズで〜す。
いわき市にある「わいわい作業所」を紹介します。
津波の被害を受けたけど、作業所のなかまで、乗り越えてきたのね。
復活したわいわい作業所のみんな、応援してるわ!

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東日本大震災より早や2年、復興の兆しが見える今日この頃です。

福島県浜通りにおいては、地震と津波に合わせ原子力事故とが重なり、現在では、原子力事故の影響のほうが長引いており、苦難を余儀なくされております。

先頃、アクアマリンふくしまで「いわき地方の地震・津波歴史展」がありました。そこでは、今までの最大津波は江戸中期に起きた高さ2メートルの津波とありました。今回の津波は高さ約7メートルもあり、その凄まじさが思い知らされました。また、このような状況であった為、津波に関しては何も言い伝えられてはおりませんし、想像することもありませんでした。

しかし、津波が現実のものとなった今、今後も起こりうることを後世に伝える必要を感じております。

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東日本大震災が起きたときの当作業所の状況をお話したいと思います。

いわき市四倉海岸に程近い当作業所には高さ約1メートルの津波がおしよせました。津波が来るなどとはその時点までまったく思わず、津波が来て初めて危険な状態に気が付いた次第です。

当時、作業所の利用者さんの大半は近くの寺に避難しておりましたが、地震後の対応をしていた所長と逃げ送れた2名の女の利用者さんが津波に合い足元をすくわれ危うい状況でした。その際、所長が機転を利かせロープを一人一人の腰に巻き全員を一本のロープでつなぎ避難所になっている近くの高校へと避難しました。

その翌日から、地震・津波・原子力災害により自宅に戻れなくなった利用者さん10名と、私の自宅での合宿生活となり、炊き出しや食料など全国からの支援を受けながら、再開まで皆で力を合わせて一緒に過ごしました。
当時のことを今振り返ってみると、大変ではありましたが、楽しい時でもありました。

震災を体験して私が皆さんに伝えたいことは「どのような場面に出会っても前向きな気持ちで進むこと、利用者さん第一に考えること」です。今更ながらにそう感じた次第です。

くるみさん

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オイラたち、きょうされんの全国大会のナビゲーター「アヅ」「ナカマン」「ハマー」を描いてくれた、生みの親を紹介するね。
南相馬の「えんどう豆」の たきざわくるみ さんです。

 

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彼女は20歳。相馬養護学校を卒業を迎え、えんどう豆に入るはずが、原発事故で避難を余儀なくされたんだ。そんで、養護学校の卒業式は、5月になっちまった。津波で1人が犠牲になり、みんな避難先から、この日の卒業式のために集まってきてくれて、涙の卒業式だった。6月にえんどう豆が再開して、彼女は、えんどう豆の一員なったんだ。彼女の家は、放射線量が高い地域で、今は20キロほど離れた避難先から、えんどう豆に通ってきている。

彼女は、お絵描きが大好き。えんどう豆に一番早く来るので、暇な時間に、お絵描きしていた。その絵を所長が色付けして、バッジにしたら大人気。今は、Tシャツ、ポスターになってます。メルセデスベンツのチャリティイベントで使われたり、NGOの大会でイラストが採用されたりと、彼女のオリジナリティはすばらしい。今度、東京で作品展が開かれるらしいよ。

シャイで、お話はあまりしないけど、AKB48の大ファンで、ヘビーローテーションを踊らせたら、すごいんだ。みんな、ファンになっちゃうぜ。おいら(ハマー)も、応援しちゃうぜ。

ぴーなっつの石田さん

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南相馬の「ぴーなっつ」の石田さんの手記を紹介するね。
「ぴーなっつ」は、生活介護の事業所よ。
全国から入ったボランティアさんは、ここで寝泊まりしのよ。
石田さんって、マイペースで、ハートがある人ね!
男性のボラさんさんにもモテモテよ!

 

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 震災後の原発事故により、南相馬市の住民が新潟に避難することなった最後の便を見送った後、無人化した鹿島の街を通って、自分も北へ避難するつもりでした。
鹿島橋を通って街へ入った時、家に入ろうとする腰を曲げたお年寄りが目に入りました。 

「お年寄りを置いて、自分だけ逃げていいのか」
自問しました。 自分には、一緒に避難する両親や妻子もいず、このまま残って最後に出て行こうと決心しました。

 3月末、消防団で活動している時、ぴーなっつから再開に向けて活動するので来てくれと連絡があり、行ってみると、神奈川きょうされんの方がドラム缶や携缶でガソリンを持ってきてくれていました。当時は、首都圏でもガソリン不足で、南相馬ではガソリンスタンドも並ばないと買えない時期で本当にありがたかったです。それからきょうされんから物資や人的ボランティアなど支援を現在まで継続して受けています。

 4月22日にぴーなっつは支援のおかげで再開できました。その後、ぴーなっつは、きょうされんが参加しているJDF(全国的な障がい者の団体)が行なった「南相馬市の障がいを持った方の避難の状況の調査」の拠点となりました。
私が避難を思いとどまった老人の方のように、体が不自由で避難できない方、避難できたとしても避難所ではとても生活できないから避難しないという方などが、調査で出てきました。

 その時、3月下旬に塙町に、ある家族の避難をさせるため、市役所の福祉課に相談しに行ったとき、避難所で身体が弱い方を避難させたいがどうしようもできないと職員の方々が真剣に悩んでいたのを思い出しました。実際、ぴーなっつで再開前に避難所に避難している身障の方の入浴支援をしており、本来保護されなければならない方々が残ってしまった現実を肌で感じていました。

 震災後、お店屋さんがどこも開いておらず、開いても長蛇の列でした。ライフラインが分断された状況で、障がいをもっている方の苦労は計りしれないものだったと思います。障がいをもっていない方でも当時、小麦粉を手に入れるにやっとで、手に入れて久しぶりの天麩羅を食べた時は、涙が出て止まらなかったということでした。仙台ではガス配給がままならず、コンロや風呂が使えないところが多数あったようです。

 南相馬市では、残っていても困難な生活、避難しても困難な生活ということで、住民は大きな決断をしなければなりませんでした。どの選択をしても心の安住はありません。南相馬の住民はこれから過去と対話をしながら未来にむかっていかなければなりません。
私たち南相馬の住民は、悲しみや悔しさを背負いつつも、前を向いて進んで行かなくてはならなかったのです。そして、私たちも、障がいをもった仲間のための居場所を再開することとしました。

 南相馬市の利用者の大半が避難していましたので、ぴーなっつは当初、避難できず自宅でいる方もしくは北の相馬市・新地町の人が利用していました。職員も大半が避難しており、人数を制限して、時間を短縮にしての再開となりました。大変な時期だったので、利用者の方に安心してもらえるように楽しい雰囲気を出そうと努力しました。そんな時、JDFから派遣された支援員の方が、みんなを励ますための催し物を開いてくれました。手品や一発芸、歌など披露してくれました。それが今日まで定例となり、毎回お楽しみ会として、さぽーとセンターぴあの3事業所、ぴーなっつ・えんどう豆・ビーンズのみんなが集まる場となりました。みんな毎回楽しみにしています。

ゴールデンウィークを過ぎると、ぼちぼちですが、店屋さんも開いてきて、ガソリンも通常に手に入るようになりました。JDFの方は、南相馬の「あじくら」という中華屋さんが好みでよく行くようになったのもこのころからです。後に、ぴーなっつの近くの「円満」というラーメン屋が再開するとそこも行くようになりました。しかし、どのお店も閉まるのが早く、今現在(H24.2.29)以前の営業時間に戻っている店は2割もない状態です。
 
 夏になるころには、かなりの方が戻ってきました。サービス提供の面で、入浴サービスが調整となり、震災以前は希望通り入浴できていたのに、半分ぐらいの入浴となりました。
現在も調整が続いており、本当に利用者の方には申し訳ないと感じています。また、活動面では、以前は散歩や野外活動があったのですが、原発事故の為にできなくなりました。草むしりが好きな利用者は、長靴とごみ袋でアピールするのですが、聞き届けてもらうのに謝るしかありませんでした。一度ドライブに行ったのですが、美しい向日葵畑の中、車を止めて、外に利用者さんを出すため、放射線測定をするとあまりの高さに、いそいでドアを閉め車を走らせました。

 そのような状況なので、当地で行われる相馬野馬追いは、縮小した形になり、30キロ圏で行えず、地元住民としては悔しい思いをしました。毎年利用者の方も楽しみにしていたのに残念です。送迎で、野馬追いの祭事場の「雲雀ヶ原」を通るたびに荒れた様子をみるにしのびなかったです。広大な敷地を除染して今年は開催するとの話ですが、まだ行ってはいません。
秋になり、職員から、暗い気分を一掃しようということで、お昼ご飯の前に、みんなで歌を歌うようにしました。坂本九さんの「上を向いて歩こう」を復興に向けて元気に歌っています。外に出られない分、体操を以前より、大目に取り入れました。みんな積極的に取り組んでいます。JDFの方へのお土産に福島の人が考案した「やきとりじいさん体操」のDVDを差し上げているのですが、ぴーなっつでは見た目よりハードな体操なのでやっておらず、全国的普及はJDF支援員の皆様に託されています。

 今年も、南相馬では作付けができず、米を作ることができません。うちでは柚子ができるのですが、放射能の為、収穫しませんでした。支援等お世話になった方へ本当は送りたかったのですができません。支援ばかり受けて何も返すことができない自分に嫌な気分になるときがありますが、いつか返すときまでと思い、今は利用者の方へと気持ちを切り替えするほかありません。

 まだ何も見通しが立っていませんが、広島・長崎そして戦後の日本を再生した先人の方たちが出来たことを少しでも近づけるよう努力していくしかありません。震災後直ぐに、消防活動で沿岸部を捜索している時、戦後の焼け野原を思わせる光景を見ました。原発事故で、無人化した街も見ました。

 心が折れそうな時、万葉集の歌を見ました。「かにかくに 人はとやかく 言うけれど 我は織らなむ真白の布を」という歌です。「いろいろとやかく人は言うけれど、自分が出来ることをただひたすらするだけ、心を正直に持って」という歌です。

 震災から一年、自立して自分たちでやっていかなければと思いつつ、支援に頼る日々が続いています。震災や原発事故の経験を風化させず、昇華して、いつか支援なされた方々に恩返しができるよう微力ですが頑張っていきます。

 障がいを持った方が、活き活きと生活できる南相馬、復興へ向けて活動をしていきたと思っています。今後もどうか、ご協力お願い致します。
全国から温かい支援をいただきました。ありがとうございました。また、中通り、会津地方の方にはいろいろ受け入れいただき言葉もありません。
大変な状況ですが、乗り越えていき、皆様へ恩がえしできるよう邁進していきます。

特定非営利活動法人さぽーとセンターぴあ
    デイさぽーと ぴーなっつ
主任 石田宏之

藤江さん

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藤江さんは、もともと福島県人です!
今は、東京に住んでるけど、福島への思いが強い!
ロック好きで、生き方もロックな人!文章もロックな感じがするなぁ。
そして、支援に来て、くるりの岸田くんに会えたラッキーな人!

ふじえ

 
20年前、原町の出張先で、お昼にうな重を出された。
役所の人は満面の笑みで「立派でしょう、このうなぎ。原発の熱で養殖したんですよ。」と加えた。
もともとうなぎを食べない私だが、その自慢にとても違和感を覚え、時間がないことを理由に丁重にお断りした。
その違和感が今、簡単にお断りできない事態となってここにある。

ひばりがさえずり、つぐみが遊ぶ、そんなのどかな風景の中でえんどう豆は活動している。
缶バッヂ、さをり織りなどの作業や、歌を歌ったり、近隣の事業所や食事会に出かけたりと、こじんまりした「さや」にメニューがたくさん詰まっている。
みんなでテーブルを囲むお茶の時間、食事時は、自然な一区切り。温かいものが出されて、会話も弾む。
掃除もみんなで。板張りの床をぞうきんがけなんて、何年振りだろう。
働いたり、笑ったり、それぞれができることをして、そうだ、これがヒト本来の暮らしなんだと思い出す。
簡単なようでいて、その自然な流れを、スタッフが利用者と時計とを交互に見ながらやりくりしている。
日頃、A型事業所に居る私には、作業の進め方は考えられても、仕事を含めた生活の愉しみ方を考えるのは至難の業で、
えんどう豆に来ためぐり合わせの意味を痛感する。

いわゆる障がいをハンデと括ることはあっても、個性と捉える場はまだまだ稀である。
むしろ、自分たちの方で線引きしてしまって、福祉の側が閉じ込めているのではと感じることもある、複雑な世界である。
そんな様々なハンデを持ちながら生きるのはただでさえ大変だが、福島・南相馬は震災以降、もっともっと大きなものを背負った。
それでも生きていく。そこで生まれたから、そこが好きだから。
そうせざるを得ないからであっても、そこで生きていく。
だから突き抜けたように、みんな元気で明るい。
でも、波が寄せては返すように、それはいつまでもは続かないだろう。
ふっと悲しくなる瞬間は、波のようにやってくる、しばらくしてから、或いは1日に何度も。
悲しみは忘れることはできない。だから忘れなくてもいいと思う。
でも1日に何度か、何日に1度か、それを考えない時間があっていい。
あった方がいい。
考えなくて済む時間が増えたら、もっといい。

南相馬で、私はたくさんのヒーローに出会った。
ヒーローはかっこいいばかりじゃなくて、立ち止まって悩むこともある、でもいつか前を向いて歩き出す。
ひとりでは泣いているのかもしれないけれど、みんなの前では明るい。
何かしらお役に立てればなんて驕った考えで伺うが、こっちが元気をもらってしまう、やっぱりヒーローだ。
でもヒーローは自分の活躍をひけらかさないので、その活動が知られることは少ない。
たった数日で何ができるでもなく、今回私は南相馬の活動、状況を知ることを目標にやってきた。
できることがあるとすれば、これからだ。
だから、知った私たちが広めていこう、広げていこう、小さくとも、いつまでも。
だって福島で、南相馬でずっと生きていく人が居るから。

『残った力を少しずつ出し合って原動力にしている、そんな活動を学び、活かしませんか~。』
『さをり織りの絶妙の配色。缶バッヂは買った後もひまわりの種を蒔く繋がりが続く。
知らない人が居るなんてもったいない、素敵な作品がたくさんありますよ~。』
「拡散」とやらは、こんな時にこそ使った方がいいのでは。
それでヒーローが少し笑顔になれるなら、ちょっと嬉しい。

生きるとは、瞬間・瞬間の繋がり、人と人の繋がりの中にあって、
すべてはあの日と繋がっている。
繋がる空の下、これからもこの糸の先に生きる人たちを忘れずに居たい。

藤江令子
JDF被災地障がい者支援センターより派遣
2013年2月12日~15日、えんどう豆にて活動

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全国大会の会場

ハマーblankきょうされんの全国大会の会場を調査せよ。「OK!ボス!行ってくるぜ!」
 

 

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場所は、郡山市の磐梯熱海って所にある「ユラックス熱海」って所が、メイン会場らしい。

東北道で、郡山ジャンクションから、会津方面へ。磐梯熱海ICを下りる。

おぉ!温泉地!露天風呂に入りて〜! 

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車のラジオを聴いていると「ラジオ福島」から、福島の人の声が伝わってきた。

この声は、大和田新アナ!? 彼こそ「2013きょうされん全国大会」の実行委員長だ。

震災から、ずっと、福島を伝え続けた人なんだぜ!

福島のきょうされんのメンバーは、大会に向けて準備中!がんばろうぜ!