つたえ

ふたばの里(楢葉町>いわき市)

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「ふたばの里」の古市くんからのメッセージです。
福島第二原発の近くにあって、強制的に避難を余儀なくされた「ふたばの里」は、避難先のいわき市で再開しました。
いい人なんだぜ。古市くんって、いかにも福島の人って感じで…。

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「今つたえたいこと」
             社会福祉法人 希望の杜福祉会    
                       相談支援専門員 古市貴之

東日本大震災から2年半が経ちました。この2年間、早かった気もしますし、長かったとも思う不思議な気持ちです。現在も多くの方が、原発事故の影響により、住み慣れたふるさとから離れて避難生活を送っていますが、私たち「ふたばの里」も双葉郡楢葉町から隣のいわき市には場所を変えて再開してちょうど2年を迎えることができました。今は、バッチ作りの他に、資源ゴミの回収を仕事として行っています。

いわき市には約3500戸の仮設住宅が建設されており地域の皆さんのご協力のもと回収活動が行えています。仲間の皆さんも仮設住宅に住んでいますが、慣れ親しんだ自宅や自分の部屋とは勝手の違う環境での生活に、戸惑いや不安を感じている方がとても多いことを感じます。仮設住宅には、一戸建てタイプ、4~5軒が壁一枚でつながっているタイプなど様々ありますが、隣の家の話し声やテレビの音も聞こえてしまう時もありますし、全く知り合いのいないところから近所付き合いなどを始めなくてはならない方もいます。被災前は、仕事をされていた方も「働く意欲がでない」「人間関係が億劫になってしまった」と部屋に閉じこもりがちになってしまった方もいます。

現在、原発のあった地域から避難されている方は、精神的損害への賠償として、東京電力から一か月に10万円の補償が受け取れます。震災から2年経った今でもその補償を主たる生活費として暮らしている方もいます。再就職をしようとして面接に行った方が「避難者は補償金がもらえるから無理して働かなくてもいいでしょう」と言われたり、「避難者は働きもせずにパチンコばかりしている」などと心ない言葉を言われることがあったと聞きました。「避難しているという負い目の気持ちから地域の輪に入って行き辛い。周囲に気を使いすぎてしまう。」「外から部屋の中をのぞかれている気がする。」そんな後ろ向きな気持ちになりがちな避難者の方が社会から孤立しないように寄り添っていく存在が今の被災地でとても大事なことだと思います。それは、被災地であってもなくても、障がいがあってもなくても、支援する人される人に関わらずに大事なことだと思います。先行きの見えない不安の中にいるとき、全国からきた皆さんに「それでいいんだよ」と背中を押してもらえ、寄り添ってもらえ、とても気持ちが楽になったことがこの2年間でたくさんありました。寄り添う気持ちの大事さを心がけて、自分たちもも誰かを勇気づけられたらいいなぁと思います。福島の今を。これからを。人から人へ伝え続けながら…。

ビーンズ

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今回は、南相馬のビーンズからのメッセージです。
震災後、利用者が倍増し、職員も不足していましたが、今では、シルクスクリーンの仕事をスタートさせるなど、元気に活動しています。がんばってるな〜!

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先日「はじめる」のキーワードで原稿を依頼され、どんなことを書こうかと考え、支援して下さった全国のボランティアの方々へ、ずっと伝えられずにいる感謝の気持ちと近況を伝える手紙を書くことにしました。

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 皆様へ

 皆様、変わらずお元気でいらっしゃるでしょうか?
震災後のビーンズは様々な理由によりなかまが増えてゆく一方、職員の不足・なかまに提供する仕事量の不足に悩みながら過ごす毎日でしたが、多くのボランティアの皆さんに助けられ今年の3月末に、JDFの支援が終了する頃には職員も定着し、なかまも落ち着いて過ごせるまでになっていました。

今年の3月までを振り返ると、本当に多くの方々に助けられ、励まされ、支えられ、限りないやさしさとパワーを頂いた2年間でした。そしていよいよ4月にはみんなが不安を抱える中、新生ビーンズがスタートし、そして1カ月が過ぎた頃だったでしょうか?親しくなったJDFの方より心配してビーンズの様子を尋ねる電話を頂きました。その時ふと、周りを見渡す余裕のない自分と変わらない笑顔でいつものように仕事をしているなかまとのギャップに改めて気付き、反省したことを思い出します。もう少しゆとりを持って日々の仕事に向かおうと思えたのは、その時頂いた電話のおかげです。
 そうして改めて考えた時、全国からいらしてくれたボランティアの方々と、色々な形のつながりが出来ていました。支援後、ご自身の職場に戻られてからもビーンズのなかまのことを気遣ってくださったり、自主製品を何度も購入して下さる方、単発の大きなお仕事を頂いたり、長く続けてゆける新たなお仕事も頂きました。長く続けてゆけるお仕事…「エコボール」…きっと1年後にはビーンズの主軸となる仕事として、定着しているでしょう。そして去年から準備してきたシルクスクリーンの機材がいよいよ動き始めました。現在は、野馬追い祭りに向けて、エコバックやTシャツを大量作成中です。まだまだ技術の勉強中ではありますが、「きょうされん  福島大会」のスタッフ・ボランティア用のTシャツ印刷のお仕事を頂きました。ありがとうございます。皆で心を込めて印刷したいと思っています。福島大会にお越しの際は、スタッフTシャツも目にとめてもらえると嬉しいです。

震災後にご縁があり知り合い、そこから始まった新しいつながり、そしてつながりから新しい取り組みが始まっています。ビーンズのなかまは今そんな出来事にわくわくしながら、毎日を過ごしています。私たちビーンズはこれからもなかまと共にあり続け、寄り添い続けます。

震災後、命があることに、家族やなかまと再会できたことに、そして新しいつながりが生まれたことに感謝しています。この機会をお借りしてぴあを、ビーンズを支援して下さった全ての方に心より御礼申し上げます。ほんとうに、本当にありがとうございました。そしてここからみなさんとのさらなる関係が始まり、ずっとずっとつながってゆけますように。

                           ビーンズ  北畑 尚子

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にんじん舎(郡山)その2

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にんじん舎の第2回目です。こだわりのうま〜い食材を、手間ひまかけて作っています。たしか、ウインナーは、南相馬の小高区にあった工場に加工してもらってたんだよね。あの味、忘れられないなぁ。震災後、みんなにその食材を配って、すごい事だと思います。原発事故の後、当たり前の暮らしが大事って事を、いろいろ考えさせられます。

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自宅待機が2週間続きましたか、にんじん舎の女性職員も動きまわっていました。
にんじん舎の食料を、食料が手にはいらない人たちに届けまわっていました。
農場のみそ、黒米、餅、養鶏場のフランク、ウインナー、つくね・・・・。
そして、産み続けるにわとりの卵。にんじん舎の加工場は忙しかったです。
しかし、みんな悩みながら働いていました。原発は?放射能は?
彼女は、あの「たまごやさんちのシフォンケーキ」を、今も焼き続けています。
                             
小泉その1

その2  小泉理保子
 「家族の誰も福島を離れることはできないから、一人だけでもいきなさい。
もちろん、行くか、行かないかは理保が決めなさい」
                           
小泉その2

震災直後、父は職場で管理職として、一人対応に明け暮れていました。母は、特別養護老人ホームで働いており、関連施設が被災し、受け入れのため慌ただしい日々を過ごし、帰らない日もありました。姉は医療従事者として病院に勤めていました。弟は消防士です。連続勤務の中、休むために帰宅し、泥のように眠る姿が印象的でした。
 私は、職場からほど近いアパートで姉と二人で生活をしていました。しかし、水道がストップし、余震の恐怖から、二本松東和の実家に戻りました。幸いにも家族の誰もが無事でした。
 はじめは、「大地震」という自然の力に、人間の非力さを感じていました。ですが、過去の歴史から時が過ぎれば、傷ついた者は癒され、傷跡は小さくなると頭のどこかで思っていました。今の混乱を越えればゆるやかに元の生活に戻れると思っていました。ところが現実は違いました。今なお地震よりも私たちの生活に濃く影を落とし続ける原発事故が起こったのです。
原発で爆発事故のあった日の夜に、父から冒頭のことを告げられました。
「おば達といとこを連れて新潟の知り合いの家に・・・・・・。」実家は原発から40キロの地点にありました。
隣は、避難区域になっている浪江町。近くの公民館には、一時的に避難してきた人たちが多く集まってきていました。でも、父の言葉に答えはでませんでした。
  同じころに、職場でも、「今はなにが起こってもおかしくない状況にあるから、家族のそばにいること」を進められました。緊迫した状況の中で、自分にむけられる暖かな心に感謝しました。何を選べば後悔しないのか、正しい情報はどれなのか、混乱と不安で涙が止まりませんでした。
  それでも、自分で決めなくてはならない。私のことだから。
予断を許さない状況の中で、もう一度原発に異変があったら避難しようと決め、家族のそばに、大切なここに残ることを決めました。
                            
小泉その3

そして、現在もここ福島で生活しています。事故後の一番の変化は、おじいちゃん、おばあちゃんの育てた野菜を全く口にしなくなったことです。買った野菜を食べ続けて、家の野菜の美味しさに気づきました。風景に何の変化もないのに、霞がかかったような違和感を感じることがあります。見えない壁が現れては、私たちが近づくのを遮り、また私たちも足を止めてしまいます。今でもその繰り返しです。放射線の体への影響は気になりますが、情報を得ることで、心配しすぎないようにしています。
今に生活を楽しみながら、大切な人たちと福島で過ごしていきたいと思います。

小泉その4

動画  マッチング事業プロモーションDVD 

にんじん舎(郡山)その1

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アズで〜す。郡山のにんじん舎を紹介します。
震災があって、津波の被害があって、追い打ちをかけるように起きた原発事故。
浜通り(海側)の作業所が、中通り(県中)のにんじん舎に一時避難した。その後、被災した地域の障がい者の避難状況を調査し、支援物資を届ける活動を行ってきた。だがその時、放射性物質は、にんじん舎にも被害をもたらしていたのだった。戦いは今も続いている。その根底にあるのは、ふくしまへの思いと人間と自然への愛です。

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捨てるにはまだまだもったいないものを活かし、
循環型養鶏や農作業に取り組んできたにんじん舎。
農場には、保育園の子どもたちが芋掘りにきたり、
認知症のおじいちゃんおばぁちゃんたちが畑に遊びに来たりしていた場所でした。
養鶏場の鶏も、運動場でミミズを食べ、風とおひさまをいっぱい浴びて過ごしていました。
地震のあとのことを職員が書いてくれました。
                            
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その1  山浦幸喜
私は、普段、にんじん舎で障がいの重い人たちと養鶏の仕事をしています。
3.11の時はにんじん舎のある郡山市も大変な状況にありました。
水や食料が手に入らず、ガソリンなどの燃料もなく、大きな余震も頻繁に起こる状況でした。
そんな時に私は、小さい子どもさんを抱えて県外に避難したBDF(バイオディーゼル燃料)担当職員のピンチヒッターで製造を任されることになりました。実は、地震のあと福島原発が水素爆発を起こし、きわめて危険な状況だったので、障がいのある利用者さんは、仕事を休み自宅待機や避難を2週間ほどしていたのですが、地震の次の日、宮城県障害福祉課長さんから「人工呼吸器などの電気を使う医療機器を停電で、自家発電でなんとかまわしている。しかし、発電機をまわす燃料が手に入らない。難民を助ける会さんからにんじん舎でBDF燃料を作っていることを聞いた。なんとか分けてもらえないか。」という電話がありました。震災直後の燃料不足で、にんじん舎のBDF燃料を必要とされる方がたくさんにんじん舎を訪ねてこられました。ヘルパーさんの車両へ、緊急物資を運ぶ車両へ、医療機器をまわす自家発電機へ、食料を調達にいく車両へ・・・・・。毎日製造におわれる日々でしたが、困っている方になんとか届けることができました。「捨てられる天ぷら油を活かす」私たちがやってきた事が必要とされ、うれしく思いました。卵も、食肉加工品も、もちやみそも届け続けることができました。にんじん舎は災害に強いとも実感しました。
                           
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しかし、状況は一変したのです。放射能が拡散し、大地が汚染されてしまいました。にんじん舎の畑で作物は作れなくなりました。鶏を外の運動場にはだせなくなりました。ビタミン、ミネラルたっぷりの畑の緑餌は食べさせられなくなりました。もみがら鶏舎の敷物もみがらは・・・・・・・・・・・。仕事でも、生活でも、今まで考えもしなかった事で悩み、何をするにも苦しい選択が強いられたのです。果たしてここにいて大丈夫なのであろうか?毎日が自問自答の日々でした。
                           
山浦その3

 私は、昨年の8月に結婚しました。妻は北海道の出身で北海道に住んでいたので、家族からは福島での生活はやめて欲しい。なぜ福島にいかなければならないのか?と反対がありました。悩んだ末に福島での生活を決めました。職場のある郡山市から20キロほど離れた放射線量の低い地域でアパートを借り生活する事になりました。通勤など多少大変な状況にありますが、安心のための決断でした。
 現在は、5月に子どもが生まれ3人で生活しています。放射能に対する不安はまだ残っていますが、必要な知識と工夫でがんばって生きたいと思います。
  9月に福島でおこなわれる全国大会は、そんな福島を知っていただくいい機会になると思います。元気のある福島をみなさんにお見せしたいと思います。

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動画  3.11復興支援プロジェクト情報レンジャー 崩れた循環型養鶏 

みやぎの伝え

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アズで〜す。
宮城の「あの時」を、鷲見さんに、伝えてもらいます。
宮城は津波で一番、被害のあった県です。
3.11を、明日のために、みんなに伝えていきますね。

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僕の3月11日

1、震災当日僕は・・・
僕の住んでいる所は、築30年くらい経過した鉄筋コンクリート10階建ての2階です。僕は起床・就寝時の身体介護と週4回の家事援助を受けながら一人暮らしをしています。その日は家にいてお昼の家事援助を終え、出かける準備をしているところでした。そして14時46分ころ、突然強いゆれを感じたのです。最近地震が続いていたので最初のうちは、また来たかという感じでいたのですが、なかなか揺れがおさず、逆にだんだん揺れが激しく。これまでに感じたことのない強い揺れが襲ってきたのです。部屋は強烈に揺れ壁にどんどん亀裂が入っていくのを目撃したときには心底ヤバイと感じました。5分位して最初の揺れが収まったころに、全障研事務局の新井田さんから「東京もかなりゆれたけど仙台は大丈夫かな?」と電話をもらい話している最中につよい余震、そして停電になってしまったのです。大体15時くらいだったと思います。それからは携帯電話やメールはっつながりににくくなっていきました。停電でんそれ以降の情報はまったく入ってきませんでした。その夜は、余震と寒さと暗闇とのお付き合いでした。そうした中で、同じ建物に住んでいる方が、安否確認に来てくれて散らかっていた部屋を車椅子で通りやすくしていただいたり、歌声の店バラライカの方がおにぎりと海中電灯をさしいれにわわざわざ来てくれました。その夜は普段なら就寝介助に来るへルパーさんも来訪できず、何回となく起こる余震に怯えながら夜が明けるのを待つしかありませんでした。

2、取り残されてしまった僕
 安否確認に来たヘルパーさんから、僕の住んでいるところは、倒壊のおそれがあるので非難命令が出ていることを知らされびっくり仰天。初めて通り残されたことを知ったのです。

3、2時間余りの避難所生活
それでそのヘルパーさんにお願いして避難所までつれていってもらいました。とりあえず倒壊の恐れがあるところから脱出できたのです。もし火災でもおきていたらと思う宇土ぞっとします。そしてほっとしたのもつかの間、連れてきてもらったヘルパーさんは次のところに行かなければならず。そこでお別れです。回りは見知らぬ人ばかりだし、避難所に来て始めて大津波の被害や今回の地震による被害の甚大さを知ったのです。そして避難所の介助体制・トイレはどうなっているのだろう?ヘルパーは避難所に来てくれるのだろうか?いろんな不安が頭をよぎってしまいました。そういった緊急のときの障害者に対するケアについてまったくといっていいほど無知だったことを思い知らされました。

4,その2か月余り実家等での恵まれた避難生活が始まる

僕はその後、妹夫婦が迎えに来てくれたので、避難所での滞在は一時間位ですみました。その妹夫婦の家も津波警報で非難していてとてもすぐ来れる状況ではなく、翌朝僕のところに来てくれたのです。そこは停電だけだったので、日中はあまり不便を感じませんでしたが、夜は暗くなる6時から7時ころには就寝。でも余震似る津波が心配ですぐに避難できるような服装で横になっていました。余震と津波に怯える日が続きました。そういう状態を心配してくれた二人の弟の家に、妹家族と非難しました。避難先での、僕の介助は一緒に行ってくれた甥っ子が主にやってくれたので、何不自由なく避難生活を送ることが出来ました。兄弟家族で僕を支えてくれて本当に助かりました。倒壊の恐れがあった僕の住んでいたところも、検査の結果大丈夫と分かったのでライフラインが回復して5月の連休明けにようやく自宅にもどりました。

5、教訓を生かそう
今回まさか自分が世界最大級の地震被害の当事者になるとは思ってもいませんでした。たくさんの命と幸せを奪い去った、いくら憎んでも憎み足りない地震と津波。そして原発被害への恐怖、将来への不安は増幅するばかりです。でも、そこで立ち止まっているわけには行きません。沢山の方々から頂いた、「励まし・優しい心」を、大きな楯にして、またいつどこでおこるかわからない災害対策・災害弱者への備えや支援体制の構築など、今回の教訓を生かしながら取り組んで行きたいとおもっています。そして普通の生活・笑顔・微笑みをとりもどしことができるよう、ちいさな一歩をみんなと一緒に踏み出して行きたいと思っています。

当日のことを詩にし曲をつけてもらいました。

「僕の3月11日」
1、突然襲った これまでに感じたことのない恐ろしい程の揺れ
   何度も何度も容赦なく揺れは続く まるで僕の恐怖をあざ笑うかのように
   そして僕は灯りを奪われ 暗闇の世界に追いやられた
   とても心細く 寒さと不安は増大 膨らむばかり 
   外は黒い空に覆われ雪が落ちてきた
 なにも見えない、なにも分らない なにも知らない 

僕のいる建物が倒壊のおそれがあるので避難命令が出て みんな避難していることを僕は知らなかった

2、大津波で想像を絶する悲劇が生まれていることなどしいるよしもない
何度も繰り返す余震に怯えながら 時間の経つのを待つ 
友が届けてくれたおにぎり 空腹を満たす 
  やっと繋がる携帯 家族 兄弟 友人たちの声 みんなの顔が頭の中を交差する
  僕は一人ぼっちではないと実感した

 翌朝、僕は初めて、沢山の命、笑顔、幸せを奪い去っていった津波を知った
 過日、津波で高校のクラスメートが亡くなっていた事を知った 
 とてもやるせなく 悲しい思い いくら願っても もう二度と会うことも 
声を聞くことすら叶うことはない 僕の3月11日

すみとしお

ピーターパンデイサービスセンター(会津)

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アズで〜す。会津のピーターパンデイサービスセンターを紹介するね。今でこそ、八重の桜で盛り上がってるけど、震災から、ふくしまは風評被害があって仕事が減ってしまった。でも、前に向かって、がんばっている所が、会津の人ってかっこいい。がんばっぺ!ふくしま。

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忘れもしない2011年、3月11日、14:46分。私は入浴介助のため浴室にいました。突然、入浴していたはずの利用者さんが「かっぽん!かっぽん!」と左右に激しく移動し、まるで大海原を漂っているような光景に、我が目を疑った。事業所内は悲鳴と建物のきしみ音、人の飛び廻る激しい足音が恐怖と共に響き渡っていた。この恐怖体験で、座って食事が出来ず、立ったまま食事をするようになってしまった方や、建物のきしみ音に敏感に反応し、声を上げてしまう方、少しの揺れで動けなくなってしまう方。震災の影響は半年くらい続きました。幸い、ガス、水道、電気等のライフラインは途切れなかったのですが、ガソリンだけは供給がストップし、3月19日から27日まで事業所を閉鎖せざるを得ない事態になってしまいました。通所出来ないストレスで心の不安定に陥る方もいらっしゃいました。

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3月28日からガソリン供給も通常に近い状態に戻り事業所を再開したのですが、今度は原発の風評被害に苦しめられるとは思いもよりませんでした。会津は原発から100k離れていて、実際、放射線量を測定しても0.12位、まさか「会津も危険だ!」と観光客が激減し、鶴ヶ城や野口英世青春通りは、人が行き交うのもまばらになってしまったのには、正直驚き、これから会津はどうなってしまうのだろうか?と呆然と立ちすくんでしまいました。さらに追い打ちをかけたのが観光客の激減で土産品が売れない事、我がピーターパンデイサービスセンター就労B型の赤ベコ塗り作業も観光客に頼らざるを得ない状況、不安がよぎりました。そして、とどめのカウンターパンチがもう一つ、電子部品の組み立て作業、「会津の電子部品は放射能汚染で使えない」との風評被害。以来、電子部品組立作業はなくなってしまいました。

ぴーたーぱん

全国のみなさんには、正確な情報を!と叫んでも、一度塗られた絵の具はそう簡単には消えてくれませんでした。
会津には大熊町、楢葉町の方々が避難され、仮設住宅で不自由な生活を送られています。その中には障がいを持った方々もおられ、我がピパネットでも大熊町の方が生活介護を利用されています。定期的に大熊町を訪問し、「自宅に残した荷物を持ち帰りたいが、持って来れねえんだ~」と悲しそうな表情を浮かべます。ふるさとに戻れない悔しさは、誰にぶつけたらいいのでしょうか?

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現在、会津は「八重の桜」効果により観光客は増加しています。特に「大河ドラマ館」周辺は土日ともなると大渋滞で、土曜の送迎は周辺を通行しないようにしている程です。ただし、この賑わいも、今年限りと噂されています。大河ドラマが終了した来年はまた、人通りもまばらな会津に戻ってしまうのでしょうか。会津の幕末史に光があたり、永続的な興味、関心を持ち続けて行って欲しいと願わずにはおれません。

あかべこ

ピーターパンデイサービスセンターは生活介護21名、就労継続支援B型10名の多機能型事業所。運営は当初から少数派の有限会社。でも会社組織でフットワークも軽く、風通しのよい事業所です。前述したように民芸品「赤べこ」の赤塗り作業が大きな収入の柱になっています。全国のみなさん!会津に来てもう一つの幕末を学び、そして赤ベコ絵付け体験を行いましょう!

有限会社 ピパネット
ピーターパンデイサービスセンター
〒965-0103
福島県会津若松市真宮新町南4丁目78番
TEL/FAX0242-58-1131
Eメール:pipaday@bz03.plala.or.jp
http://pipanet.hiho.jp

まち子ちゃんの店

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アズで〜す。
ふくいちから40km圏内のある田村市船引町の「まち子ちゃんの店」と「みらくる」から、熱〜いメッセージが届いたわよ。
余談だけど、まち子ちゃんの店は、クッキーを作っていて、おいしいのよ。

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私たちの事業所では、まち子ちゃんの店(就労継続支援B型)とみらくる(生活介護)を運営し、障がいのある人たちが日中活動の場として集い、知識と能力の向上に必要な訓練やリハビリと必要な機能訓練を受け、毎日を過ごしていました。
2011年3月11日、宮城県沖を震源とした東日本大震災は、今まで経験のないほどの衝撃と人的災害をもたらしました。
幸運にも、引っ越したばかりの事業所建物には目立った損傷も少なく、またけが人もなく、余震の落ち着きや交通事情を確認し、安全に利用者さんをご家族の元に引き渡すことができました。

地域で単身自立生活をされている利用者さんとって、余震が続く生活環境は不安が大きく、また自宅が半壊されている方もいらしたために、事業所で話し合い、避難場所として、生活介護事業所を提供し、共同生活をする判断をしました。
彼女ら全てが身体障がい、言語障がいを持つ重度の重複障がい者です。地域での自立生活では、ホームヘルパーの介助なしでは生活が困難な方たちです。

震災で床に落ちてしまった事業所のTVでしたが、当時の報道を視聴することができました。日を追って、ガソリンや物資が滞り、事業所に通うホームヘルパーや事業所支援員の足に影響が出始めました。
時事報道を収集し傾聴していた中、福島第一原発事故が発生しました。
理事長より、ご家族にお子さんがいるまたは妊娠中のホームヘルパーさん、支援員には、可能な限り遠くへ避難して欲しいと話がありました。

利用者さんを残し、避難してもよいのか、家族を守り、避難すべきか。
事業所に避難されている利用者さんは、ホームヘルパーがいないと生活が困難です。

避難指示範囲の情報に日々変動がある中での不安と、放射能汚染に対する恐ろしさ。
半壊した自宅、確保が難しいホームヘルパー派遣、続く余震。原発事故の終息も見えない。
会議をし、勤務シフトの変更、工夫を重ね、ホームヘルパーの確保が可能となり(実務は過労働でしたが)私たちは利用者、ホームヘルパー・支援員共々、自主避難をするという決断をしました。3月14日のことでした。

ホームヘルパーの利用に関しては、障害者自立支援法の制度利用を当該市町村に申し入れ、個別の障がいの程度に合った1ヶ月の支給量(時間数)が決定されます。これは、居宅での利用(家事援助・身体介護)が基本となり、利用者さんの居宅以外のホームヘルパー派遣は制度上認められません。また、災害救助法による介護補償もありません。
震災時は特例給付が認められ、居宅以外のホームヘルパー派遣を行うことが可能でした。
しかし、生活環境が変わり慣れない避難先での生活は、普段の生活に比べ、排泄・入浴・食事・コミュニケーション介助等の日常に必要とされる支援に時間を要し、支給量を超えてしまいました。
すぐに当該市町村の担当職に連絡し、「避難することにより、支給量を超えてしまう可能性がある」旨を伝えたところ、「記録をきちんと取っておいてください」との返答を受けました。

およそ1ヶ月の自主避難を行い、帰宅しました。
震災時は、様々な特例が県から、また市町村から決定されていました。
自主避難に対する特例給付も多くの市町村で伺うことができ、その多くの方たちの生活は守られていました。

私たちの事業所で自主避難された利用者さんの1名が、自主避難における日常生活で支給量を超過したため、市町村窓口に相談に向かいました。
通常ではない特別な事情なので、「特例給付」または支給決定時間数の「支給変更申請」が適用になるものと考えていましたが、そこでの話は、耳を疑うものでした。

支給量超過に対する「特例給付」は適用されないこと、また「支給変更申請」は、事前に行うべきものであり、事前の内容を審査し決裁へと進む手続きになるため、さかのぼった支給変更申請はできないとのこと。
自主避難なので、特例給付以外は自腹になるのでしょうか。
この説明を受けてもなお納得がいかず、「支給変更申請書」を提出しましたが、窓口で受け取りを拒否されました。
市長宛に「支給変更申請書」を郵送したところ、受理され、担当職が聞き取り調査のため訪問にきました。
しかし、震災当時の被害状況は改修済であったために、全半壊には該当しないと判断されてしまいました。

その後の結果、「支給変更申請書」は、却下されました。

大きな理由としては、
1 災害救助法による全半壊・全半焼またはそれに準ずる被災に該当しないため
2 自主避難によるもののため

自主避難をしないと、想定される恐ろしさや困難は、計り知れませんでした。自分の安全が自分で確保できないと判断した末の、自主避難でした。

その後、様々な情報と仲間の署名運動、同意され無償で意見書をお書きくださった弁護士さん等の支援・協力を頂き、福島県に対し8月24日、審査請求を行いました。

福島県の裁決書には「支給変更申請」に関しては、「心身の状況の変化その他の当該申請を行う原因となった事由を記載し、厚生労働省令で定めるところにより市町村に対し当該支給決定の変更を行うことができる」ことが明記されていました。

この裁決を受けたのは、平成23年12月27日。震災から9ヶ月以上の時間を要しました。

3.11未曾有の大災害では、未だ避難を余儀なくされている多くの方たちがいます。
各々で判断し、行動を起こされています。1人1人の判断は、不透明で不安なまま実行されており、命を落とした方も少なくありません。
1人1人が「正しい」と思い行動を起こしています。

災害が起きても、障がいがある人や要介護者、社会的弱者が困窮することなく、すみ良い制度社会が整えられることを、切望いたします。

いざ福島へ!復興のための車両提供事業

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熊本から支援を受けた車、支援のため、福島中を走り回りました。

ありがとう!くまもと!

5、ふれみんぐ号 贈呈式

きょうされん熊本支部の宮田です。
私は、熊本県中小企業家同友会という団体で被災地支援の活動グループに入っています。大震災の直後から、復旧・復興のためには車両が必要であると、無償提供の活動にを取り組んできました。車両を提供する方、車検・整備を提供してくれる整備工場、、、たくさんの協同の力で実現したのです。また、搬送費用は希望の缶詰の販売でまかないました。

第1号は、いわき市のわいわい作業所さんに送りました。北九州の新門司港からフェリーで二晩かけて東京港に入りました。上陸後、初めての関東での運転にひやひやしながら、また被災地に赴くことを思うとたいへん緊張したことを今でもを覚えています。開設したばかりの被災地 障がい者支援センターふくしまに到着した時は、本当にホッとしました。
ちょうどきょうされん理事長の西村直さんもおいででしたので、センターの車の後をついて行きながらいわき市に入りました。四倉のわいわい作業所に着くまでに、パトカーと自衛隊のトラックとしかすれ違いませんでしたので、心臓がドキドキしました。


1、わいわい作業所 宮田号

最初の車を運んだ時は、まだ瓦礫が山のように街の中にあり、津波の後の臭いが報道ではわからない被害のひどさを感じさせました。溝に横たわったままの車や傾きボロボロになった家、かげもカタチもなく砂原となった町・・・。自分の人生の中でもこれほどのショックを受けたことはありません。
さらに驚いたのは、被災地のみなさんが黙々と復旧作業をして おられた姿でした。
はやく帰って、みんなに知らせなければ!

2、福島センター 白ワゴン

その後、JDF関係で9台の車両を送ろう!という私たちの活動がこうして始まったのです。
1台は亡くなられた穴沢さんが子どもさんたちと熊本まで取りに来られたんですよ。本当の復興のために力を尽くされていたんです。
遠く九州からですが、穴沢さんの遺志を継いで、皆さんとともに福島の復興に参加したいと思います。
がんばっぺ

きょうされん熊本支部副支部長
宮田喜代志

わいわい作業所

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アズで〜す。
いわき市にある「わいわい作業所」を紹介します。
津波の被害を受けたけど、作業所のなかまで、乗り越えてきたのね。
復活したわいわい作業所のみんな、応援してるわ!

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東日本大震災より早や2年、復興の兆しが見える今日この頃です。

福島県浜通りにおいては、地震と津波に合わせ原子力事故とが重なり、現在では、原子力事故の影響のほうが長引いており、苦難を余儀なくされております。

先頃、アクアマリンふくしまで「いわき地方の地震・津波歴史展」がありました。そこでは、今までの最大津波は江戸中期に起きた高さ2メートルの津波とありました。今回の津波は高さ約7メートルもあり、その凄まじさが思い知らされました。また、このような状況であった為、津波に関しては何も言い伝えられてはおりませんし、想像することもありませんでした。

しかし、津波が現実のものとなった今、今後も起こりうることを後世に伝える必要を感じております。

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東日本大震災が起きたときの当作業所の状況をお話したいと思います。

いわき市四倉海岸に程近い当作業所には高さ約1メートルの津波がおしよせました。津波が来るなどとはその時点までまったく思わず、津波が来て初めて危険な状態に気が付いた次第です。

当時、作業所の利用者さんの大半は近くの寺に避難しておりましたが、地震後の対応をしていた所長と逃げ送れた2名の女の利用者さんが津波に合い足元をすくわれ危うい状況でした。その際、所長が機転を利かせロープを一人一人の腰に巻き全員を一本のロープでつなぎ避難所になっている近くの高校へと避難しました。

その翌日から、地震・津波・原子力災害により自宅に戻れなくなった利用者さん10名と、私の自宅での合宿生活となり、炊き出しや食料など全国からの支援を受けながら、再開まで皆で力を合わせて一緒に過ごしました。
当時のことを今振り返ってみると、大変ではありましたが、楽しい時でもありました。

震災を体験して私が皆さんに伝えたいことは「どのような場面に出会っても前向きな気持ちで進むこと、利用者さん第一に考えること」です。今更ながらにそう感じた次第です。

ぴーなっつの石田さん

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南相馬の「ぴーなっつ」の石田さんの手記を紹介するね。
「ぴーなっつ」は、生活介護の事業所よ。
全国から入ったボランティアさんは、ここで寝泊まりしのよ。
石田さんって、マイペースで、ハートがある人ね!
男性のボラさんさんにもモテモテよ!

 

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 震災後の原発事故により、南相馬市の住民が新潟に避難することなった最後の便を見送った後、無人化した鹿島の街を通って、自分も北へ避難するつもりでした。
鹿島橋を通って街へ入った時、家に入ろうとする腰を曲げたお年寄りが目に入りました。 

「お年寄りを置いて、自分だけ逃げていいのか」
自問しました。 自分には、一緒に避難する両親や妻子もいず、このまま残って最後に出て行こうと決心しました。

 3月末、消防団で活動している時、ぴーなっつから再開に向けて活動するので来てくれと連絡があり、行ってみると、神奈川きょうされんの方がドラム缶や携缶でガソリンを持ってきてくれていました。当時は、首都圏でもガソリン不足で、南相馬ではガソリンスタンドも並ばないと買えない時期で本当にありがたかったです。それからきょうされんから物資や人的ボランティアなど支援を現在まで継続して受けています。

 4月22日にぴーなっつは支援のおかげで再開できました。その後、ぴーなっつは、きょうされんが参加しているJDF(全国的な障がい者の団体)が行なった「南相馬市の障がいを持った方の避難の状況の調査」の拠点となりました。
私が避難を思いとどまった老人の方のように、体が不自由で避難できない方、避難できたとしても避難所ではとても生活できないから避難しないという方などが、調査で出てきました。

 その時、3月下旬に塙町に、ある家族の避難をさせるため、市役所の福祉課に相談しに行ったとき、避難所で身体が弱い方を避難させたいがどうしようもできないと職員の方々が真剣に悩んでいたのを思い出しました。実際、ぴーなっつで再開前に避難所に避難している身障の方の入浴支援をしており、本来保護されなければならない方々が残ってしまった現実を肌で感じていました。

 震災後、お店屋さんがどこも開いておらず、開いても長蛇の列でした。ライフラインが分断された状況で、障がいをもっている方の苦労は計りしれないものだったと思います。障がいをもっていない方でも当時、小麦粉を手に入れるにやっとで、手に入れて久しぶりの天麩羅を食べた時は、涙が出て止まらなかったということでした。仙台ではガス配給がままならず、コンロや風呂が使えないところが多数あったようです。

 南相馬市では、残っていても困難な生活、避難しても困難な生活ということで、住民は大きな決断をしなければなりませんでした。どの選択をしても心の安住はありません。南相馬の住民はこれから過去と対話をしながら未来にむかっていかなければなりません。
私たち南相馬の住民は、悲しみや悔しさを背負いつつも、前を向いて進んで行かなくてはならなかったのです。そして、私たちも、障がいをもった仲間のための居場所を再開することとしました。

 南相馬市の利用者の大半が避難していましたので、ぴーなっつは当初、避難できず自宅でいる方もしくは北の相馬市・新地町の人が利用していました。職員も大半が避難しており、人数を制限して、時間を短縮にしての再開となりました。大変な時期だったので、利用者の方に安心してもらえるように楽しい雰囲気を出そうと努力しました。そんな時、JDFから派遣された支援員の方が、みんなを励ますための催し物を開いてくれました。手品や一発芸、歌など披露してくれました。それが今日まで定例となり、毎回お楽しみ会として、さぽーとセンターぴあの3事業所、ぴーなっつ・えんどう豆・ビーンズのみんなが集まる場となりました。みんな毎回楽しみにしています。

ゴールデンウィークを過ぎると、ぼちぼちですが、店屋さんも開いてきて、ガソリンも通常に手に入るようになりました。JDFの方は、南相馬の「あじくら」という中華屋さんが好みでよく行くようになったのもこのころからです。後に、ぴーなっつの近くの「円満」というラーメン屋が再開するとそこも行くようになりました。しかし、どのお店も閉まるのが早く、今現在(H24.2.29)以前の営業時間に戻っている店は2割もない状態です。
 
 夏になるころには、かなりの方が戻ってきました。サービス提供の面で、入浴サービスが調整となり、震災以前は希望通り入浴できていたのに、半分ぐらいの入浴となりました。
現在も調整が続いており、本当に利用者の方には申し訳ないと感じています。また、活動面では、以前は散歩や野外活動があったのですが、原発事故の為にできなくなりました。草むしりが好きな利用者は、長靴とごみ袋でアピールするのですが、聞き届けてもらうのに謝るしかありませんでした。一度ドライブに行ったのですが、美しい向日葵畑の中、車を止めて、外に利用者さんを出すため、放射線測定をするとあまりの高さに、いそいでドアを閉め車を走らせました。

 そのような状況なので、当地で行われる相馬野馬追いは、縮小した形になり、30キロ圏で行えず、地元住民としては悔しい思いをしました。毎年利用者の方も楽しみにしていたのに残念です。送迎で、野馬追いの祭事場の「雲雀ヶ原」を通るたびに荒れた様子をみるにしのびなかったです。広大な敷地を除染して今年は開催するとの話ですが、まだ行ってはいません。
秋になり、職員から、暗い気分を一掃しようということで、お昼ご飯の前に、みんなで歌を歌うようにしました。坂本九さんの「上を向いて歩こう」を復興に向けて元気に歌っています。外に出られない分、体操を以前より、大目に取り入れました。みんな積極的に取り組んでいます。JDFの方へのお土産に福島の人が考案した「やきとりじいさん体操」のDVDを差し上げているのですが、ぴーなっつでは見た目よりハードな体操なのでやっておらず、全国的普及はJDF支援員の皆様に託されています。

 今年も、南相馬では作付けができず、米を作ることができません。うちでは柚子ができるのですが、放射能の為、収穫しませんでした。支援等お世話になった方へ本当は送りたかったのですができません。支援ばかり受けて何も返すことができない自分に嫌な気分になるときがありますが、いつか返すときまでと思い、今は利用者の方へと気持ちを切り替えするほかありません。

 まだ何も見通しが立っていませんが、広島・長崎そして戦後の日本を再生した先人の方たちが出来たことを少しでも近づけるよう努力していくしかありません。震災後直ぐに、消防活動で沿岸部を捜索している時、戦後の焼け野原を思わせる光景を見ました。原発事故で、無人化した街も見ました。

 心が折れそうな時、万葉集の歌を見ました。「かにかくに 人はとやかく 言うけれど 我は織らなむ真白の布を」という歌です。「いろいろとやかく人は言うけれど、自分が出来ることをただひたすらするだけ、心を正直に持って」という歌です。

 震災から一年、自立して自分たちでやっていかなければと思いつつ、支援に頼る日々が続いています。震災や原発事故の経験を風化させず、昇華して、いつか支援なされた方々に恩返しができるよう微力ですが頑張っていきます。

 障がいを持った方が、活き活きと生活できる南相馬、復興へ向けて活動をしていきたと思っています。今後もどうか、ご協力お願い致します。
全国から温かい支援をいただきました。ありがとうございました。また、中通り、会津地方の方にはいろいろ受け入れいただき言葉もありません。
大変な状況ですが、乗り越えていき、皆様へ恩がえしできるよう邁進していきます。

特定非営利活動法人さぽーとセンターぴあ
    デイさぽーと ぴーなっつ
主任 石田宏之