浦岡さんの思い

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浦岡さんは、デザイナーで、震災後、ふくしまの支援センターに何度も来て、大事な時にデザインの協力をしてくれている。
「つながり∞ふくしま」の立ち上げの時も、協力してもらい、プロの仕事をしてもらった。きょうされんの全国大会でも、お世話になっている。今、みんなに伝えることが大事で、そこにデザインの力は欠かせない。ありがとう、浦岡さん!

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 生まれも育ちも九州で、大学に入学し、初めて東日本に行った。大学の教養課程の2年間を北海道岩見沢で過ごした。3月、九州は春。桜も咲き暖かくなり、セーターもいらなくなった頃、祖父とふたりで北海道に夜行電車を乗り継いで行った。42時間かけて到着した岩見沢は、真っ白。雪の壁が続く町。そんな風景を見たのは初めてで、「ここで2年間も1人で暮らすのか…」と思うと泣きたくなった。これが僕の東日本との最初の縁。「東は寒い異国の地」というのが僕の中での東日本の印象になってしまった。その後、専門課程に進み、社会人になって東京に住むことになるが、同じ東京に住むにも西側、出張も旅行に行くのも何故か西日本、というほど、東を無意識に敬遠していた。

 しかし、2011年3月以降、その隔たりは崩壊する。当時、日本財団の真心絶品をサポートする真心絶品運営委員会のメンバーとして、大阪で活動するNPO法人トゥギャザーの上月氏と福祉施設商品のクオリティー向上について検討を重ねていた。そして3.11を迎える。上月氏の動きは早かった。「とにかく行く。行かんと何ができるから分からへんやろ。」と、四駆に自転車やミニバイク、ガソリン、テントにシュラフと支援物資を山のように積んで出かけて行った姿を覚えている。その2〜3週間後、僕も東北へ旅立つことになった。日本財団から頼まれた物資を積んで盛岡〜仙台の施設を回り、真心絶品として何かできること、商品を探し出し、販売支援のベースを作ることがその目的だった。7月には、仙台でトゥギャザーの方達と合流し、最終日にJDF被災地障がい者支援センターふくしまを訪ねることになる。その夜、福島と僕を繋ぐ運命的な「つながり」の仕掛けがあるなど思いもしなかったのだが…。

「つながり∞ふくしま」プロジェクト。その象徴でもあるカンバッジがデザインを生業にしている僕のアンテナに引っかかったのだ。JDFの鈴木さんにそのプロジェクトの説明していただき興味を持った僕は、どうしても現物を見たいと思い、「どこに行けば現物を見られますか」と尋ねると、南相馬で作っているから現地に行けば見られると言う。しかも、その夜は福島の施設の若いひと達が集まる勉強会があり、後で鈴木さんも合流するというので、東京に戻る予定を明日に延ばし、郡山から南相馬に向かった。

 現地に到着したのが夕方過ぎ。会場へ行くと鈴木さんから連絡を受けていた「にんじん舎」の和田さんが迎えてくれ、ご多忙にもかかわらず「つながり∞ふくしま」プロジェクトをこんこんと説明してくださった。しかし、資料が複雑すぎて、正直これは難解だと感じた。その後、食事会に。誰も知らない僕には孤独との戦いかなと思っていたが、話題が施設商品やデザインのことになり、本来のデザインの役割、どうすれば消費者に伝わるか、そのためのパッケージはなどの話しを少しさせていただくと、数人の方にから「施設の商品に足らないのはデザイン」とのお声を聞き、福島の施設にはデザインを真剣に求める意識があることを嬉しく感じた。なぜならその思いこそが商品と自分たちを成長させる一歩なのだから。そして、その流れで2次会…。食事会の整然とした状態から一気に無礼講へ。大分お酒も入り、みんなと楽しく熱い時間を過ごさせていただいた。特に和田さんとのお話は深く、これまでの福島と今後の福島のリアルな話しを聞き、何か力になることがあればと心から思った。

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※2次会に差入した石巻祥心会の復興酒「デコとボコ」(日本初の菊芋焼酎)。

 帰京後、「つながり∞ふくしま」プロジェクトをもっと分かりやすく、ひとに説明しやすい資料を作ろうと思い、一つの図を完成させ、ポスターを自主的に制作した。その事がきっかけとなり施設で働く仲間を募集するポスターの4部作を作成、そして今回の「きょうされん全国大会inふくしま」のポスターを作成させていただいた。制作の都度、僕は福島に足を運ぶ。打合せ、撮影、様々な理由を付けては福島に行く。打合せをし、現場に行き、課題を聞き、酒を飲み、雑魚寝をし、少ない時間だがなるべく現場に身を置き、リアルな福島を感じようと思っている。それは、僕の仕事がデザイン、つまり「つたえる」仕事だから。つたえるためには福島と「つながって」いなければならない。

 次の仕事は…、自分の目で見た「ふくしま」を、福島のひとたちの仕事を分かりやすく構成し、他の人に伝えて行く仕事をしたいと思っている。土地を汚染され、去ったものも多い。それでも除染と戦う事を条件にその地に残った人々は、不条理な思いに負けず日々を過ごさなければならない。その試練を超えた時、福島はとてつもなく大きな存在になるだろう。なぜなら、内外の多くの仲間、そして知恵の結集が必要だからだ。その履歴を多くのひとに知って欲しいし、将来的にその中に僕もつながっていたいと思うからだ。

 最後に、特に、若い職員たちに。今の施設の仕事は慢性的な人材不足もあり、本当に大変だと思います。辛いときもあると思います。でも、撮らせていただいた写真の中のみんなの顔はとても輝いていました。その輝きは未来の種です。立ち止まらず、進化してください。明日ではなく、5年10年先を想像してください。そこにあなたたちの笑顔を継続し(つなげる)、持続可能な自分たちの福島を形成するために。

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※人材募集用に撮影したいわきの施設にて。みんなの笑顔が輝いている。

まどか工房 新倉さん

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アズで〜す。横浜にある「夢21」から、たくさんの人が支援に来てくれました。新倉さんも、その1人。笑顔が素敵な人よ!来年の全国大会は横浜であるそうで、その時は、ワタシも行くわ!
それでは、新倉さん、コメントお願いします。

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 東日本大震災から2年2カ月が過ぎました。その間、JDFの災害支援活動に4度参加させていただきました。

支援活動は、救援物資の配達、被災や避難生活の実態把握調査、そして事業所支援です。活動を通じて、災害時に避難できない障害のある方が多数いたということ、障害のある方にとって避難所での生活の困難さ、また、個人情報保護の壁や要援護者リストの重要性など色々と知ることができました。これらを目のあたりにし、社会の危弱性・社会のもろさを感じ、この社会基盤の上では、災害時に障害のある方は常に命の危険性が隣り合わせにあるのだと思いました。それと同時に、『命の大切さ』『日々の暮らし』『地域社会とのつながり』の大切さをあらためて考えました。

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私が事業所支援に参加させていただいた南相馬市では、現段階でも多くの課題があり、課題によっては日に日に深刻になっていくものも多くあると聴いています。原発から20キロ圏内の警戒区域だった同市小高区おいては震災前にあった約500の民間企業などのうち、再開したのは製造業を中心に40事業所程であったり、区外の仮設校舎で授業を続ける4小学校の児童帰還率は27%を切る状況であると聴きました。このように町全体の機能もままならず復興にも時間がかかる状態でした。

このように東日本大震災は、あまりにも多くの犠牲を払い、多くの悲しみを生みました。しかし、それと同時に得たものもありました。無責任かもしれませんが私はそう信じたいです。この震災にも意味があります。だから、この経験を無駄にするようなことはしてはいけないと考えます。

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私は災害支援活動での経験を身近な事業所で生かしていきたいと考えています。そのひとつは、避難計画をたてることです。そのため日々、障害のある方と向き合い理解し利用者個人にあった避難計画を作って行きたいと思います。そして、今回の震災で明確になった問題を整理しそれに対応していけるよう、平時より準備していきたいと思います。このようなことの積み重ねが、想定外と言われる震災を、想定内に変えていき結果、減災に繋がっていくのではないかと考えます。
また、活動を通じて見たもの、感じたことを多くの人に伝えていき、この東日本大震災で起きた様々なことを風化させずにいきたいと考えます。

夢21福祉会 まどか工房 新倉朋矢

北山さん

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北山さんは、元交流サロンしんせい職員で、仮設住宅を回って障がいをお持ちの方がいないか交流しながら情報をえたり、県内から授産製品を集めて販売してくれたり、されていた方です。
仮設回りや、販売会などの話が来た時も頑張ってくれていました。ありがとう、北山さん!

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JDF「被災地障がい者支援センターふくしま」は、東日本大震災後、すぐの2011年3月19日に福島県の障がい者団体が立ち上げ、被災障がい者の所在確認をして、個別支援に結び付けていきたいというところから活動を開始されました。

私がJDF被災地障がい者支援センターの交流サロンしんせいの一員として、お手伝いすることになったのは、震災7か月後の2011年10月からです。福島県の場合、地震、津波、そして、東京電力の福島第1原発の事故と災害が幾重にも重なり、多くの人たちが避難を余儀なくされました。原発から20キロ圏内の警戒区域の相双地区の人たちは、理由も知らされないまま、2~3日ですぐ帰れると思って避難のバスに乗った人もいたと聞いております。

東日本大震災で、福島県には日本全国のいろいろな所からさまざまな支援や応援をいただきました。それは直接、現地でのボランテァであったり、物としての支援品であったり、また、その支援品を遠くから運んで届けてくれた人、等々多くの人たちに震災
の支援、援助をいただきました。

JDF被災地障がい者支援センター交流サロンしんせいでは、全国からのさまざまな支援や援助を、人と人をつなぎ、支援品を人と施設とにつなぐ等、「つなぐ」ことが仕事の一環となりました。私が担当し関わったのはその中のほんの一部ですが、①重度の身体障がい者の方や、障がいをお持ちの方がどこに避難しているのかをさがすことでした。その為、仮設住宅の集会所でお茶会を開き、困ったことがないか、障がいをお持ちの方が住まわれていないかをお聞きして、相談支援にお繋ぎすることでした。  ②南相馬市の6つの事業所の震災復興プロジェクト、南相馬ファクトリーの、カンバッジ、Tシャツの紹介と販売 ③障がい者施設の授産商品の紹介と販売  ④原発のため浪江町から福祉施設を二本松市に移し事業を再開した「コーヒータイム」さんと「アクセスホームさくら」さんへの後方支援等です。

印象深いことをあげてみますと、震災から1年目の郡山市で行われたイベントの時に駅前で全国から来られた人に南相馬フェクトリーのカンバッジの販売をしました。「福島応援隊」や滝沢くるみさんのデザインのものもすすめて喜ばれました。
授産商品の販売に全国の作業療法士会を紹介して下さった方いて、伊豆や東京、山形からなど、受注をいただいたことです。授産商品は、注文に対して数量を集めるのが大変で、苦労致しましたが、各施設に納期まで間に合わせていただいて、納品することが
出来、本当によかった。それぞれのところからも、喜ばれ、完売されたとの連絡をいただきました。

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又、震災後、二本松市に移って、8月に新しい事業(ラスク販売)を立ち上げた、「アクセスホームさくら」さんのラスク販売も、あらゆる機会を捉えて宣伝し、仮設住宅めぐりの中でも販売し、少しずつ売り上げを伸ばすことが出来ました。微力ですが、販売に協力出来て、本当によかったと感じています。

7月、田村市の仮設住宅をまわっている時に「チョビ」という名の犬に出会いました。すぐに滝沢くるみさんのデザインのカンバッジに「チョビ」があったと思い出しました。チョビは震災時に家族と離れ離れになり、保護されて別の名前をつけられていたそうですが、何ヶ月か後に家族と再会したそうです。次に仮設住宅に行った時にチョビに、カンバッジをプレゼントしました。
仮設住宅は郡山市、田村市の6か所を廻って、重度の身体障がい者さんはおりませんでした。しかし原発事故で避難している多くのひとのお話を聞く機会がありました。目の不自由な人が避難所を何カ所も廻って、大変な思いをされたこと、高齢者の方が多く、自宅にいれば、畑や田んぼで仕事ができるのに、狭い仮設住宅で日がな一日、過ごす苦痛など、また、狭い仮設住宅で要介護5の母親を介護して一緒に住んでいる方もおり、さまざまな思いで、生活しておりました。
お茶会を通して、仮設住宅で生活している人たちと、コーヒーを飲みながら、支援品を持参し、一緒に輪投げをしたり、お菓子を食べたりしました。原発事故の避難時の様子、故郷への思い、家族のこと、一時帰宅の自宅の様子などを聞き、原発事故が、平穏で幸福な市民生活を一瞬のうちにうばってしまったと強い憤りを感じます。

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(朝日新聞H25年5月8日付)「原発20キロ圏を一律に立ち入り禁止にした警戒区域を、放射線量に応じた3区域に見直される。帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除区域、に再編することを政府が決定した。
避難を余儀なくされた9市町村の約7万7千人のうち、約5万1千人は日中の立ち入りが可能になり、一方、2万5千人余りの立ち入り禁止が続く」と。

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福島県の平穏で幸福な市民生活、きれいな土、水、空気、はいつになったら戻るのでしょうか?
全国のみなさんのさまざまな形の支援、援助が、厳しい現実のなかで、喪失感と途方に暮れていた多くの人たちの、心のささえとなると思います。
「つなぐ」という新しい繋がりが、明日への勇気と希望になり、再生と未来への新生を生み出し、この未曾有の大震災を、乗り越える原動力となるのではないでしょうか。
「つなぐ」その中に、ほんの少し身を置くことが出来て、さまざまなことを学ぶ、良い機会となりました。本当にありがとうございました。

北山 亮子

Cafeいっぷくや(ほっと悠)

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震災と原発事故から2年、南相馬の福祉作業所は、支援を受けながらも、動き出したぞ。
警戒区域にだった南相馬の小高区に、なんとカフェをスタートさせたのは、「ほっと悠」だ。
今でも人が入れても、夜は泊まれない避難解除準備区域にある。
それでもスタートさせた「ほっと悠」。 理事長の村田さんに、話を聞いた。

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震災後、小高の町に、カフェがなくなってしまったんです。

小高区役所より、カフェを開かないか話があった際、正直、迷っいました。

「ほっと悠」は、今まで地域から頼まれて、何事も始めてきたんですね。

今まで、ずっと人の喜んでくれることをやって行こうという思いから、カフェの話を引き受けました。

これからは、町の人たちや、仮設の人たちが、気軽にちょっと寄ってくれるような、カフェにしたいと思います。

・4月30日オープン
・営業時間AM11:00~PM2:30
・一押しメニュー 弁当400円、亜久里コーヒー300円

 弁当は、毎日50食以上の人気メニュー。
 予約も可能。(AM10:00まで  080-3321-9931)

・【イベント】
 PM1:30~PM2:30
 6月28日㈮シンガーソングライター小川んさんのミニライブがあります。

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小高区は居住禁止で、上下水道も一部復旧したばかり。

震災後、同市内の旧警戒区域でカフェが営業するのは初めての事です。

オープンの日、地元住民らで約30席は満席となり、用意したお弁当60食も、完売したそうです。

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(右下が理事長の村田さん)

まち子ちゃんの店

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アズで〜す。
ふくいちから40km圏内のある田村市船引町の「まち子ちゃんの店」と「みらくる」から、熱〜いメッセージが届いたわよ。
余談だけど、まち子ちゃんの店は、クッキーを作っていて、おいしいのよ。

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私たちの事業所では、まち子ちゃんの店(就労継続支援B型)とみらくる(生活介護)を運営し、障がいのある人たちが日中活動の場として集い、知識と能力の向上に必要な訓練やリハビリと必要な機能訓練を受け、毎日を過ごしていました。
2011年3月11日、宮城県沖を震源とした東日本大震災は、今まで経験のないほどの衝撃と人的災害をもたらしました。
幸運にも、引っ越したばかりの事業所建物には目立った損傷も少なく、またけが人もなく、余震の落ち着きや交通事情を確認し、安全に利用者さんをご家族の元に引き渡すことができました。

地域で単身自立生活をされている利用者さんとって、余震が続く生活環境は不安が大きく、また自宅が半壊されている方もいらしたために、事業所で話し合い、避難場所として、生活介護事業所を提供し、共同生活をする判断をしました。
彼女ら全てが身体障がい、言語障がいを持つ重度の重複障がい者です。地域での自立生活では、ホームヘルパーの介助なしでは生活が困難な方たちです。

震災で床に落ちてしまった事業所のTVでしたが、当時の報道を視聴することができました。日を追って、ガソリンや物資が滞り、事業所に通うホームヘルパーや事業所支援員の足に影響が出始めました。
時事報道を収集し傾聴していた中、福島第一原発事故が発生しました。
理事長より、ご家族にお子さんがいるまたは妊娠中のホームヘルパーさん、支援員には、可能な限り遠くへ避難して欲しいと話がありました。

利用者さんを残し、避難してもよいのか、家族を守り、避難すべきか。
事業所に避難されている利用者さんは、ホームヘルパーがいないと生活が困難です。

避難指示範囲の情報に日々変動がある中での不安と、放射能汚染に対する恐ろしさ。
半壊した自宅、確保が難しいホームヘルパー派遣、続く余震。原発事故の終息も見えない。
会議をし、勤務シフトの変更、工夫を重ね、ホームヘルパーの確保が可能となり(実務は過労働でしたが)私たちは利用者、ホームヘルパー・支援員共々、自主避難をするという決断をしました。3月14日のことでした。

ホームヘルパーの利用に関しては、障害者自立支援法の制度利用を当該市町村に申し入れ、個別の障がいの程度に合った1ヶ月の支給量(時間数)が決定されます。これは、居宅での利用(家事援助・身体介護)が基本となり、利用者さんの居宅以外のホームヘルパー派遣は制度上認められません。また、災害救助法による介護補償もありません。
震災時は特例給付が認められ、居宅以外のホームヘルパー派遣を行うことが可能でした。
しかし、生活環境が変わり慣れない避難先での生活は、普段の生活に比べ、排泄・入浴・食事・コミュニケーション介助等の日常に必要とされる支援に時間を要し、支給量を超えてしまいました。
すぐに当該市町村の担当職に連絡し、「避難することにより、支給量を超えてしまう可能性がある」旨を伝えたところ、「記録をきちんと取っておいてください」との返答を受けました。

およそ1ヶ月の自主避難を行い、帰宅しました。
震災時は、様々な特例が県から、また市町村から決定されていました。
自主避難に対する特例給付も多くの市町村で伺うことができ、その多くの方たちの生活は守られていました。

私たちの事業所で自主避難された利用者さんの1名が、自主避難における日常生活で支給量を超過したため、市町村窓口に相談に向かいました。
通常ではない特別な事情なので、「特例給付」または支給決定時間数の「支給変更申請」が適用になるものと考えていましたが、そこでの話は、耳を疑うものでした。

支給量超過に対する「特例給付」は適用されないこと、また「支給変更申請」は、事前に行うべきものであり、事前の内容を審査し決裁へと進む手続きになるため、さかのぼった支給変更申請はできないとのこと。
自主避難なので、特例給付以外は自腹になるのでしょうか。
この説明を受けてもなお納得がいかず、「支給変更申請書」を提出しましたが、窓口で受け取りを拒否されました。
市長宛に「支給変更申請書」を郵送したところ、受理され、担当職が聞き取り調査のため訪問にきました。
しかし、震災当時の被害状況は改修済であったために、全半壊には該当しないと判断されてしまいました。

その後の結果、「支給変更申請書」は、却下されました。

大きな理由としては、
1 災害救助法による全半壊・全半焼またはそれに準ずる被災に該当しないため
2 自主避難によるもののため

自主避難をしないと、想定される恐ろしさや困難は、計り知れませんでした。自分の安全が自分で確保できないと判断した末の、自主避難でした。

その後、様々な情報と仲間の署名運動、同意され無償で意見書をお書きくださった弁護士さん等の支援・協力を頂き、福島県に対し8月24日、審査請求を行いました。

福島県の裁決書には「支給変更申請」に関しては、「心身の状況の変化その他の当該申請を行う原因となった事由を記載し、厚生労働省令で定めるところにより市町村に対し当該支給決定の変更を行うことができる」ことが明記されていました。

この裁決を受けたのは、平成23年12月27日。震災から9ヶ月以上の時間を要しました。

3.11未曾有の大災害では、未だ避難を余儀なくされている多くの方たちがいます。
各々で判断し、行動を起こされています。1人1人の判断は、不透明で不安なまま実行されており、命を落とした方も少なくありません。
1人1人が「正しい」と思い行動を起こしています。

災害が起きても、障がいがある人や要介護者、社会的弱者が困窮することなく、すみ良い制度社会が整えられることを、切望いたします。

事務局の紹介

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きょうさんの全国大会の福島の事務局から「いい書がたくさん、届いいている!」と連絡あり。
調査に行ってきてくれ!ハマーくん!
「了解、ボス!」 郡山に向かうのであった。

 

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JDF被災地障がい者支援センターふくしまの事務所に近く、階段を上っていくと、ありました!きょうされんの全国大会の事務所。
「ど〜も!ハマーです!」出迎えてくれたのは、事務局の和田さんと川前さんだ。お礼のために製作された南相馬ファクトリー製のバッジを持って、はいチーズ!

9月に開かれるの全国大会に向けての話し合い中。今度、大会の実行委員長の大和田新さん(ラジオ福島)が、5月20日の放送中に、きょうされんの全国大会の紹介をしてくれるそうで、気合いが入っております。
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全国の募集して、集まった「ここから つなぎ はじめる」の書、一部を拝見させて頂きました。送って頂いた作品は、大会のグッズや会場で活用させていただきます。送ってくださった皆さん、ありがとうございます。

すばらしい字ですね。 ふくしまは、全国からエネルギーをもらってるんですね。

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余談ですが、黄色い自転車、GIANTから支援していただきました。世界に1,000台の限定品です。

共働作業所ピーターパン(会津)

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共働作業所「ピーターパン」は、きょうされん福島支部長の穴沢さんが所長をしていた会津にある福祉作業所です。穴沢さん、天国から見守ってください。僕らも、福島のなかまとがんばっから! それでは、ピーターパンの紹介をお願いします!

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 あれから三回目の春が訪れました。震災の爪痕は今もなお多くの人々を苦しめ、更に福島は長い長い放射能との戦いに晒されています。

 共働作業所ピーターパンは会津地方、会津美里町にあり、震災のダメージは福島県の中でも少ない地域にあたります。
震災当時、ピーターパンでは関東の会社の農業新規参入にあたり、農作業を請け負う契約をしていました。 しかし、原発事故による風評被害により事業は撤退。期待していた仕事と収入を失いました。「みんなの給料をどうしよう?」と途方に暮れたのを覚えています。
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 施設中での仕事とは違い、ここでは常にお客様の目に晒されています。当然、「この位でいいだろう」といった妥協も許されません。
担当している利用者さん達は、いままで感じたことのないプレッシャーの中で作業を行っていると思います。 しかしその分働くことでお金を頂く喜びを肌で感じているのです。旅館での就労も早1年になりますが、今では、就労先の旅館にとってピーターパンの労働力は無くてはならない存在となっています。
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「八重の桜」でアツイ会津

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全国から観光に訪れた方々に、会津のことをもっと知ってほしい。会津の美味しいものを食べてほしい。ピーターパンでは、会津の名産のひとつである「会津地鶏」を飼育していますが、 今回その採れたて卵を、旅館の朝食として提供することになりました。 プリプリ黄身の濃厚たまごかけご飯が、実は「アツイ」んです。
会津に観光に来て下さった方に、採れたて新鮮なタマゴを提供する。お客様にも満足してもらえば生産元の私たちも大満足です。
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私たちの事業が、復興の一端を担う。

ピーターパンの復興はここから、はじまる。

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浦岡さん

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きょうさんの全国大会のポスターを作ってくれた「浦岡さん」を紹介するね。
彼は、デザイナーの立場で、震災後から、ずっと福島を応援してくれていたんだ。
直接、人と接する福祉関係の仕事ではないけど、人のつながりが大きくなっていくね。ありがとうございます。浦岡さん。

 

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ボスター・チラシ・リーフ等の制作には、「ふくしまの仲間」として活動をしてくださったグラフィックデザイナーの浦岡さんの力をお借りしました。

浦岡さんは、震災後2011年7月、南相馬で開催したきょうされん福島支部研修会に訪ねてきて、宿に一緒に泊まってくださいました。震災直後の状況があちこちに残る南相馬で仕事を失ったふくしまの話を若い職員から一晩中聞いていた姿が印象的でした。

それから一週間後、私たちのもとに浦岡さんから一枚のポスターと冊子が届きました。「カンバッジとつながり∞ふくしま 」を全国に一番早く発信してくれたのが浦岡さんでした。以下に浦岡さんからのメッセージを掲載します。

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第36回きょうされん全国大会in東北・ふくしま
ポスター制作について

 記憶に新しい未曾有の震災。
この福島を始め東北で被災にあわれたみなさまに心からお見舞い申し上げます。

この思い、どれほど多くのひとが心から思ったでしょう。
そして、どれほど多くのひとがこの地に訪れたことでしょう。
みんなの気持ちはひとつだったはず。
少しでもいいから何か役に立ちたい、役に立つことはないか、と。

福島及び東北の方々は震災後、今もなお本当に辛い日々が続いていることと思います。しかし、押しつぶされそうになりながらも一歩一歩前に歩き出せたのは、そんな全国の仲間からの応援や声だったと言います。
 
 そんな福島が第36回きょうされんの全国大会の舞台に選ばれ、全国の仲間に伝えられるメッセージ。
それは、「ありがとう日本、ありがとうみんな」以外にふさわしい言葉があるでしょうか。

これは事務局のみなさんと打合せさせていただいたときに、みんなで考えた言葉です。そして、ポスターにはこれまで協力してくださった方々全ての名前を感謝の言葉に代えて掲載できたら、と言うことになりました。ポスターとしては文字だらけで読み辛いと思います。でも、それよりも、みんなに感謝の気持ちを伝えたい、と。

 今回このポスターを制作させていただく機会を作ってくださった事務局のみなさまに深く感謝申し上げます。そして、これからもなお続く戦いにおいて、自分ができることがあれば喜んでお手伝いをさせていただくつもりです。それは大会に参加された方全員の気持ちでもあると思います。
福島・東北のみなさまが作ってくれたこの出会いを大切にし、これからも共に少しずつ前に進めるように…。

グラフィックデザイナー 浦岡伸行

いざ福島へ!復興のための車両提供事業

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熊本から支援を受けた車、支援のため、福島中を走り回りました。

ありがとう!くまもと!

5、ふれみんぐ号 贈呈式

きょうされん熊本支部の宮田です。
私は、熊本県中小企業家同友会という団体で被災地支援の活動グループに入っています。大震災の直後から、復旧・復興のためには車両が必要であると、無償提供の活動にを取り組んできました。車両を提供する方、車検・整備を提供してくれる整備工場、、、たくさんの協同の力で実現したのです。また、搬送費用は希望の缶詰の販売でまかないました。

第1号は、いわき市のわいわい作業所さんに送りました。北九州の新門司港からフェリーで二晩かけて東京港に入りました。上陸後、初めての関東での運転にひやひやしながら、また被災地に赴くことを思うとたいへん緊張したことを今でもを覚えています。開設したばかりの被災地 障がい者支援センターふくしまに到着した時は、本当にホッとしました。
ちょうどきょうされん理事長の西村直さんもおいででしたので、センターの車の後をついて行きながらいわき市に入りました。四倉のわいわい作業所に着くまでに、パトカーと自衛隊のトラックとしかすれ違いませんでしたので、心臓がドキドキしました。


1、わいわい作業所 宮田号

最初の車を運んだ時は、まだ瓦礫が山のように街の中にあり、津波の後の臭いが報道ではわからない被害のひどさを感じさせました。溝に横たわったままの車や傾きボロボロになった家、かげもカタチもなく砂原となった町・・・。自分の人生の中でもこれほどのショックを受けたことはありません。
さらに驚いたのは、被災地のみなさんが黙々と復旧作業をして おられた姿でした。
はやく帰って、みんなに知らせなければ!

2、福島センター 白ワゴン

その後、JDF関係で9台の車両を送ろう!という私たちの活動がこうして始まったのです。
1台は亡くなられた穴沢さんが子どもさんたちと熊本まで取りに来られたんですよ。本当の復興のために力を尽くされていたんです。
遠く九州からですが、穴沢さんの遺志を継いで、皆さんとともに福島の復興に参加したいと思います。
がんばっぺ

きょうされん熊本支部副支部長
宮田喜代志

協賛バッジ

ハマーblankハマーくん、
きょうされんの全国大会のバッジ、レポートに南相馬まで、行ってくれ。

「了解、ボス!」

 

バッジ製作

 今年、福島の郡山市で開かれる「きょうされん全国大会」。震災後、東北の復興を願い、合同で企画し準備が進んでいます。協賛して頂いた皆さんに、バッジのお礼をすることになりました。

 今、南相馬のなかまたちが、バッジ製作の作業に入っています。写真は、団体協賛の方に送るバッジの詰め合わせです。一個、一個手作りで、心を込めて作っています。応援、よろしくお願いします。

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