ビーンズ

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今回は、南相馬のビーンズからのメッセージです。
震災後、利用者が倍増し、職員も不足していましたが、今では、シルクスクリーンの仕事をスタートさせるなど、元気に活動しています。がんばってるな〜!

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先日「はじめる」のキーワードで原稿を依頼され、どんなことを書こうかと考え、支援して下さった全国のボランティアの方々へ、ずっと伝えられずにいる感謝の気持ちと近況を伝える手紙を書くことにしました。

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 皆様へ

 皆様、変わらずお元気でいらっしゃるでしょうか?
震災後のビーンズは様々な理由によりなかまが増えてゆく一方、職員の不足・なかまに提供する仕事量の不足に悩みながら過ごす毎日でしたが、多くのボランティアの皆さんに助けられ今年の3月末に、JDFの支援が終了する頃には職員も定着し、なかまも落ち着いて過ごせるまでになっていました。

今年の3月までを振り返ると、本当に多くの方々に助けられ、励まされ、支えられ、限りないやさしさとパワーを頂いた2年間でした。そしていよいよ4月にはみんなが不安を抱える中、新生ビーンズがスタートし、そして1カ月が過ぎた頃だったでしょうか?親しくなったJDFの方より心配してビーンズの様子を尋ねる電話を頂きました。その時ふと、周りを見渡す余裕のない自分と変わらない笑顔でいつものように仕事をしているなかまとのギャップに改めて気付き、反省したことを思い出します。もう少しゆとりを持って日々の仕事に向かおうと思えたのは、その時頂いた電話のおかげです。
 そうして改めて考えた時、全国からいらしてくれたボランティアの方々と、色々な形のつながりが出来ていました。支援後、ご自身の職場に戻られてからもビーンズのなかまのことを気遣ってくださったり、自主製品を何度も購入して下さる方、単発の大きなお仕事を頂いたり、長く続けてゆける新たなお仕事も頂きました。長く続けてゆけるお仕事…「エコボール」…きっと1年後にはビーンズの主軸となる仕事として、定着しているでしょう。そして去年から準備してきたシルクスクリーンの機材がいよいよ動き始めました。現在は、野馬追い祭りに向けて、エコバックやTシャツを大量作成中です。まだまだ技術の勉強中ではありますが、「きょうされん  福島大会」のスタッフ・ボランティア用のTシャツ印刷のお仕事を頂きました。ありがとうございます。皆で心を込めて印刷したいと思っています。福島大会にお越しの際は、スタッフTシャツも目にとめてもらえると嬉しいです。

震災後にご縁があり知り合い、そこから始まった新しいつながり、そしてつながりから新しい取り組みが始まっています。ビーンズのなかまは今そんな出来事にわくわくしながら、毎日を過ごしています。私たちビーンズはこれからもなかまと共にあり続け、寄り添い続けます。

震災後、命があることに、家族やなかまと再会できたことに、そして新しいつながりが生まれたことに感謝しています。この機会をお借りしてぴあを、ビーンズを支援して下さった全ての方に心より御礼申し上げます。ほんとうに、本当にありがとうございました。そしてここからみなさんとのさらなる関係が始まり、ずっとずっとつながってゆけますように。

                           ビーンズ  北畑 尚子

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あすなろホーム(岩手)

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岩手の陸前高田の「あすなろホーム」さんからの「つたえ」のレポートです。
岩手の海岸部は、中心市街地が海側にあって、大きな被害が出ている。でも、みんな支え合って、生きてきたんだなぁと思う。
かんばっぺし、岩手!
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大切ないつもの暮らし

3月11日 (金) 午後2時46分
 強い地震の後、大津波に襲われました。あすなろホームは、高台にあったため難を逃れましたが、黒い水と土ぼこりやしぶきそして高田松原の松とともに私たちの大切な人や場所がみるみるうちに津波に飲み込まれてしまいました。
 その時あすなろホームでは、午後の休憩が終わり作業を開始したばかりでした。強く長い地震に皆怯え戸惑いましたが、一緒にいたことでお互いを力にし、誰一人パニックにならずに済みました。その夜は、地域住民と作業用のホッカイロで暖を取り、販売用のお菓子を分け合って不安な夜を過ごしました。

いつもの・・・
 3月中は避難所として、家族が迎えに来るまで利用者とともにあすなろホームで過ごしました。通所施設のため、非常食や寝具そして反射式ストーブなどを何とかしようと動き回っていました。みんなはすることもなく作業場に集まってただラジオからの悲しい情報に耳を傾けているばかりでした。ふと気がつくと口数が少なくなり、笑顔が消えていました。現状がよくわからない不安と、家に帰って家族と過ごせない寂しさがあったのでしょう。そこで3日目からは、係り分担をし、掃除・川へ水汲み・料理そして残っていたいつもの作業を少しずつ始めました。体を動かすことにより心も動いたのでしょうか、いつもの表情がだんだん見られるようになってきました。
4月に入り、生活状況確認に職員が手分けをして回ると、避難所や親戚宅での生活は、周りの人との関係が本人にとっても家族にとっても厳しく、通所開始を望む声が多くありました。できることから始めようと考え、津波・地震の被害が少なく、車で送迎できる範囲の方のみを対象に、4月4日から通所を再開しました。初日は12名の利用でしたが、再開したことを地域の新聞で広報したところ、なんと市外の利用者が家族に送られて通所してくることもあり、すぐに20名を超えました。こんな時だからこそ、いつもの場所でいつものように作業することが利用者の精神安定にも繋がること、そして家族が次に向かっての行動(片付けや手続き・安否確認など)ができる時間が確保できることなど、通所施設の必要性を強く感じました。

働くということ
当施設での活動は、お菓子作りなどの食品の製造と販売・民間企業などからの下請け作業でした。これまでの販売先の市役所・道の駅・各企業そして私たちを作業所時代から暖かく支えてくれた住民宅が、津波の被害にあったため、お菓子を作っても売り先がなくなってしまいました。数箇所あった下請けの作業も企業が流れたり、生産しなくなったりしてなくなってしまいました。
それでも、毎日通所してくる利用者の笑顔が増えるように、知り合いの企業の計らいで新しい袋詰め作業を始められたり、残っていた材料でお菓子を焼いて、今までお世話になっていた地域の方々に届けたりしました。仲間と共に作業に夢中になったり楽しい話をしたりしていると、家が流れたことや自分の大事なものを失った悲しみがその時だけでも忘れられたのか、笑顔がこぼれる人が日に日に多くなっていったように覚えています。みんなの暖かさ、仲間という絆の強さがあったからこそ、私自身も前を向いて歩み続けられたと感じています。

心より感謝
震災後、全国の皆様からいろいろな支援物資だけでなく、たくさんの暖かい言葉をかけていただきました。だからこのような状況になっても私たちは『ひとりではない』ということを強く感じ、頑張り続けてこれました。2年半がたとうとする今でも、皆様の暖かな支えには感謝の念でいっぱいです。
陸前高田の町は、まだまだどこに町ができるのかもわからない状態ですが、「また売りに来てもいいよ。」という声に励まされ、週に3回ペースで地域に出かけ訪問販売を再開しています。お客様と笑顔をかわす喜びを実感しています。また、全国の皆様が行ってくれる復興イベント等での販売に商品をたくさん送らせていただきました。今後も「ようし、売るぞー。」と思っていただけるように大切に商品を仕上げ、商品開発にも取り組んでいきます。

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思い(全社協の西方さんより)

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全社協の西方さんより、コメントを頂きました。
ちょつと、ウルウルきてます。ありがとうございます。

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つ な ぎ

 全国社会福祉協議会高年障害福祉部の西方といいます。JDFの被災地支援員派遣事業にきょうされんとともに参加した全国社会就労センター(セルプ協)側のコーディネートを担当した事務局員です。実は事務局の川前さんからのブログへの原稿依頼を一度お断りしました。けれども再度依頼があり、お引き受けすることにしました。しかし大変恐縮しておりますし、複雑な気持ちでこの文章を書いています。
恐縮している理由は、私のかかわりがあまりに小さいことです。コーディネートというと専門的なことをしているように思えますが、実際はJDFから届いた人員派遣依頼を会員施設・事業所に送信して、これに応じた申込みを整理してJDFに届けることが主な内容でした。もちろん、書類を右から左に流せば済むというものではありませんでしたが、これまでこのブログに登場された方の活動や寝袋・食料持参で被災地に向われた支援員の方々と比べてあまりにささいな関わりです。
 複雑な気持ちの理由は後ろめたさです。私は生まれも育ちも東京で、福島のみなさんを苦しめている原発は、その東京に電力を送るために作られ、私は何の疑問もなくその恩恵を受けてきました。
 それでもあえてお引き受けしたのは、2年間にわたって被災地支援を行ってきたきょうされんの皆さんに感謝の言葉をお伝えしたかったからです。私がいただいた原稿依頼のテーマは「つなぎ」ですが、たくさんのきょうされんの方々が宮城県や福島県に向われるのをみて、そのお一人お一人の熱い心に感動しました。日本人を、人間を心から信じてみようと改めて思いました。

 私が震災後初めて福島県に行ったのは震災発生から9か月後の12月でした。それまでセルプ協は宮城県に支援員を派遣していましたが、11月で支援員派遣事業が終了ということになりました。その後はセルプ協も福島県に向かうことになり、事前に情報を収集するために当時のセルプ協の役員が南相馬市のぴーなっつを訪問しました。担当事務局員として私も同行したのです。その際、青田理事長から原発事故から始まった南相馬市のできごとをうかがいました。その時うかがったお話は、その後朝日新聞の連載記事になっていました。
 青田理事長のお話は一生忘れることができないものになると思いますが、そのなかで私を勇気づけてくれた印象深い話が下のセブンイレブンです。
当時は原発から同心円状に30㎞以内が立ち入り禁止になっていました。道路は通行止めになっており、そこには警官が立っていました。そして、そこから歩いてわずかな距離にセブンイレブンが営業していました。そのセブンイレブンの店長さんは南相馬市が全市避難を決めてからも営業を続けたそうです。「こういう時だからこそ店の灯を消してはいけない」との理由からです。セブンイレブン本社の方針で商品の補給ができなくなってもどこからか商品を調達して営業を続けたそうです。「今ではちょっとした観光スポットになってますよ」と青田理事長からうかがいました。
あのセブンイレブンは今も営業を続けているのだろうと思います。もう一度行って確かめてみたいのですが、その後何度か南相馬市を訪問することはあったのですが、その機会をつくることができないでいます。

最後になりましたが、このブログは9月21~22日に開催されるきょうされん全国大会 in 福島を盛り上げるために作られたとうかがいました。参加予定者はなんと2000人。災害人員派遣の時と同様その動員力にはただ驚くばかりです。しかも開催地は福島県。原発の再稼働を巡って国民の意見が分かれている今、自分の意見を決めることは今の時代を生きる私たちの義務で、その際に福島県で起こったことを実際肌で感じることは大切なことだと思います。
実は私もセルプ協の大会の開催を目前に控えて事務局として追い込みをかけているところです。準備をされている事務局の方のご苦労やお気持ちはよくわかります。ぜひ全国大会が大成功で終わることを祈念しております。

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にんじん舎(郡山)その2

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にんじん舎の第2回目です。こだわりのうま〜い食材を、手間ひまかけて作っています。たしか、ウインナーは、南相馬の小高区にあった工場に加工してもらってたんだよね。あの味、忘れられないなぁ。震災後、みんなにその食材を配って、すごい事だと思います。原発事故の後、当たり前の暮らしが大事って事を、いろいろ考えさせられます。

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自宅待機が2週間続きましたか、にんじん舎の女性職員も動きまわっていました。
にんじん舎の食料を、食料が手にはいらない人たちに届けまわっていました。
農場のみそ、黒米、餅、養鶏場のフランク、ウインナー、つくね・・・・。
そして、産み続けるにわとりの卵。にんじん舎の加工場は忙しかったです。
しかし、みんな悩みながら働いていました。原発は?放射能は?
彼女は、あの「たまごやさんちのシフォンケーキ」を、今も焼き続けています。
                             
小泉その1

その2  小泉理保子
 「家族の誰も福島を離れることはできないから、一人だけでもいきなさい。
もちろん、行くか、行かないかは理保が決めなさい」
                           
小泉その2

震災直後、父は職場で管理職として、一人対応に明け暮れていました。母は、特別養護老人ホームで働いており、関連施設が被災し、受け入れのため慌ただしい日々を過ごし、帰らない日もありました。姉は医療従事者として病院に勤めていました。弟は消防士です。連続勤務の中、休むために帰宅し、泥のように眠る姿が印象的でした。
 私は、職場からほど近いアパートで姉と二人で生活をしていました。しかし、水道がストップし、余震の恐怖から、二本松東和の実家に戻りました。幸いにも家族の誰もが無事でした。
 はじめは、「大地震」という自然の力に、人間の非力さを感じていました。ですが、過去の歴史から時が過ぎれば、傷ついた者は癒され、傷跡は小さくなると頭のどこかで思っていました。今の混乱を越えればゆるやかに元の生活に戻れると思っていました。ところが現実は違いました。今なお地震よりも私たちの生活に濃く影を落とし続ける原発事故が起こったのです。
原発で爆発事故のあった日の夜に、父から冒頭のことを告げられました。
「おば達といとこを連れて新潟の知り合いの家に・・・・・・。」実家は原発から40キロの地点にありました。
隣は、避難区域になっている浪江町。近くの公民館には、一時的に避難してきた人たちが多く集まってきていました。でも、父の言葉に答えはでませんでした。
  同じころに、職場でも、「今はなにが起こってもおかしくない状況にあるから、家族のそばにいること」を進められました。緊迫した状況の中で、自分にむけられる暖かな心に感謝しました。何を選べば後悔しないのか、正しい情報はどれなのか、混乱と不安で涙が止まりませんでした。
  それでも、自分で決めなくてはならない。私のことだから。
予断を許さない状況の中で、もう一度原発に異変があったら避難しようと決め、家族のそばに、大切なここに残ることを決めました。
                            
小泉その3

そして、現在もここ福島で生活しています。事故後の一番の変化は、おじいちゃん、おばあちゃんの育てた野菜を全く口にしなくなったことです。買った野菜を食べ続けて、家の野菜の美味しさに気づきました。風景に何の変化もないのに、霞がかかったような違和感を感じることがあります。見えない壁が現れては、私たちが近づくのを遮り、また私たちも足を止めてしまいます。今でもその繰り返しです。放射線の体への影響は気になりますが、情報を得ることで、心配しすぎないようにしています。
今に生活を楽しみながら、大切な人たちと福島で過ごしていきたいと思います。

小泉その4

動画  マッチング事業プロモーションDVD 

にんじん舎(郡山)その1

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アズで〜す。郡山のにんじん舎を紹介します。
震災があって、津波の被害があって、追い打ちをかけるように起きた原発事故。
浜通り(海側)の作業所が、中通り(県中)のにんじん舎に一時避難した。その後、被災した地域の障がい者の避難状況を調査し、支援物資を届ける活動を行ってきた。だがその時、放射性物質は、にんじん舎にも被害をもたらしていたのだった。戦いは今も続いている。その根底にあるのは、ふくしまへの思いと人間と自然への愛です。

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捨てるにはまだまだもったいないものを活かし、
循環型養鶏や農作業に取り組んできたにんじん舎。
農場には、保育園の子どもたちが芋掘りにきたり、
認知症のおじいちゃんおばぁちゃんたちが畑に遊びに来たりしていた場所でした。
養鶏場の鶏も、運動場でミミズを食べ、風とおひさまをいっぱい浴びて過ごしていました。
地震のあとのことを職員が書いてくれました。
                            
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その1  山浦幸喜
私は、普段、にんじん舎で障がいの重い人たちと養鶏の仕事をしています。
3.11の時はにんじん舎のある郡山市も大変な状況にありました。
水や食料が手に入らず、ガソリンなどの燃料もなく、大きな余震も頻繁に起こる状況でした。
そんな時に私は、小さい子どもさんを抱えて県外に避難したBDF(バイオディーゼル燃料)担当職員のピンチヒッターで製造を任されることになりました。実は、地震のあと福島原発が水素爆発を起こし、きわめて危険な状況だったので、障がいのある利用者さんは、仕事を休み自宅待機や避難を2週間ほどしていたのですが、地震の次の日、宮城県障害福祉課長さんから「人工呼吸器などの電気を使う医療機器を停電で、自家発電でなんとかまわしている。しかし、発電機をまわす燃料が手に入らない。難民を助ける会さんからにんじん舎でBDF燃料を作っていることを聞いた。なんとか分けてもらえないか。」という電話がありました。震災直後の燃料不足で、にんじん舎のBDF燃料を必要とされる方がたくさんにんじん舎を訪ねてこられました。ヘルパーさんの車両へ、緊急物資を運ぶ車両へ、医療機器をまわす自家発電機へ、食料を調達にいく車両へ・・・・・。毎日製造におわれる日々でしたが、困っている方になんとか届けることができました。「捨てられる天ぷら油を活かす」私たちがやってきた事が必要とされ、うれしく思いました。卵も、食肉加工品も、もちやみそも届け続けることができました。にんじん舎は災害に強いとも実感しました。
                           
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しかし、状況は一変したのです。放射能が拡散し、大地が汚染されてしまいました。にんじん舎の畑で作物は作れなくなりました。鶏を外の運動場にはだせなくなりました。ビタミン、ミネラルたっぷりの畑の緑餌は食べさせられなくなりました。もみがら鶏舎の敷物もみがらは・・・・・・・・・・・。仕事でも、生活でも、今まで考えもしなかった事で悩み、何をするにも苦しい選択が強いられたのです。果たしてここにいて大丈夫なのであろうか?毎日が自問自答の日々でした。
                           
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 私は、昨年の8月に結婚しました。妻は北海道の出身で北海道に住んでいたので、家族からは福島での生活はやめて欲しい。なぜ福島にいかなければならないのか?と反対がありました。悩んだ末に福島での生活を決めました。職場のある郡山市から20キロほど離れた放射線量の低い地域でアパートを借り生活する事になりました。通勤など多少大変な状況にありますが、安心のための決断でした。
 現在は、5月に子どもが生まれ3人で生活しています。放射能に対する不安はまだ残っていますが、必要な知識と工夫でがんばって生きたいと思います。
  9月に福島でおこなわれる全国大会は、そんな福島を知っていただくいい機会になると思います。元気のある福島をみなさんにお見せしたいと思います。

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動画  3.11復興支援プロジェクト情報レンジャー 崩れた循環型養鶏 

みやぎの伝え

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アズで〜す。
宮城の「あの時」を、鷲見さんに、伝えてもらいます。
宮城は津波で一番、被害のあった県です。
3.11を、明日のために、みんなに伝えていきますね。

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僕の3月11日

1、震災当日僕は・・・
僕の住んでいる所は、築30年くらい経過した鉄筋コンクリート10階建ての2階です。僕は起床・就寝時の身体介護と週4回の家事援助を受けながら一人暮らしをしています。その日は家にいてお昼の家事援助を終え、出かける準備をしているところでした。そして14時46分ころ、突然強いゆれを感じたのです。最近地震が続いていたので最初のうちは、また来たかという感じでいたのですが、なかなか揺れがおさず、逆にだんだん揺れが激しく。これまでに感じたことのない強い揺れが襲ってきたのです。部屋は強烈に揺れ壁にどんどん亀裂が入っていくのを目撃したときには心底ヤバイと感じました。5分位して最初の揺れが収まったころに、全障研事務局の新井田さんから「東京もかなりゆれたけど仙台は大丈夫かな?」と電話をもらい話している最中につよい余震、そして停電になってしまったのです。大体15時くらいだったと思います。それからは携帯電話やメールはっつながりににくくなっていきました。停電でんそれ以降の情報はまったく入ってきませんでした。その夜は、余震と寒さと暗闇とのお付き合いでした。そうした中で、同じ建物に住んでいる方が、安否確認に来てくれて散らかっていた部屋を車椅子で通りやすくしていただいたり、歌声の店バラライカの方がおにぎりと海中電灯をさしいれにわわざわざ来てくれました。その夜は普段なら就寝介助に来るへルパーさんも来訪できず、何回となく起こる余震に怯えながら夜が明けるのを待つしかありませんでした。

2、取り残されてしまった僕
 安否確認に来たヘルパーさんから、僕の住んでいるところは、倒壊のおそれがあるので非難命令が出ていることを知らされびっくり仰天。初めて通り残されたことを知ったのです。

3、2時間余りの避難所生活
それでそのヘルパーさんにお願いして避難所までつれていってもらいました。とりあえず倒壊の恐れがあるところから脱出できたのです。もし火災でもおきていたらと思う宇土ぞっとします。そしてほっとしたのもつかの間、連れてきてもらったヘルパーさんは次のところに行かなければならず。そこでお別れです。回りは見知らぬ人ばかりだし、避難所に来て始めて大津波の被害や今回の地震による被害の甚大さを知ったのです。そして避難所の介助体制・トイレはどうなっているのだろう?ヘルパーは避難所に来てくれるのだろうか?いろんな不安が頭をよぎってしまいました。そういった緊急のときの障害者に対するケアについてまったくといっていいほど無知だったことを思い知らされました。

4,その2か月余り実家等での恵まれた避難生活が始まる

僕はその後、妹夫婦が迎えに来てくれたので、避難所での滞在は一時間位ですみました。その妹夫婦の家も津波警報で非難していてとてもすぐ来れる状況ではなく、翌朝僕のところに来てくれたのです。そこは停電だけだったので、日中はあまり不便を感じませんでしたが、夜は暗くなる6時から7時ころには就寝。でも余震似る津波が心配ですぐに避難できるような服装で横になっていました。余震と津波に怯える日が続きました。そういう状態を心配してくれた二人の弟の家に、妹家族と非難しました。避難先での、僕の介助は一緒に行ってくれた甥っ子が主にやってくれたので、何不自由なく避難生活を送ることが出来ました。兄弟家族で僕を支えてくれて本当に助かりました。倒壊の恐れがあった僕の住んでいたところも、検査の結果大丈夫と分かったのでライフラインが回復して5月の連休明けにようやく自宅にもどりました。

5、教訓を生かそう
今回まさか自分が世界最大級の地震被害の当事者になるとは思ってもいませんでした。たくさんの命と幸せを奪い去った、いくら憎んでも憎み足りない地震と津波。そして原発被害への恐怖、将来への不安は増幅するばかりです。でも、そこで立ち止まっているわけには行きません。沢山の方々から頂いた、「励まし・優しい心」を、大きな楯にして、またいつどこでおこるかわからない災害対策・災害弱者への備えや支援体制の構築など、今回の教訓を生かしながら取り組んで行きたいとおもっています。そして普通の生活・笑顔・微笑みをとりもどしことができるよう、ちいさな一歩をみんなと一緒に踏み出して行きたいと思っています。

当日のことを詩にし曲をつけてもらいました。

「僕の3月11日」
1、突然襲った これまでに感じたことのない恐ろしい程の揺れ
   何度も何度も容赦なく揺れは続く まるで僕の恐怖をあざ笑うかのように
   そして僕は灯りを奪われ 暗闇の世界に追いやられた
   とても心細く 寒さと不安は増大 膨らむばかり 
   外は黒い空に覆われ雪が落ちてきた
 なにも見えない、なにも分らない なにも知らない 

僕のいる建物が倒壊のおそれがあるので避難命令が出て みんな避難していることを僕は知らなかった

2、大津波で想像を絶する悲劇が生まれていることなどしいるよしもない
何度も繰り返す余震に怯えながら 時間の経つのを待つ 
友が届けてくれたおにぎり 空腹を満たす 
  やっと繋がる携帯 家族 兄弟 友人たちの声 みんなの顔が頭の中を交差する
  僕は一人ぼっちではないと実感した

 翌朝、僕は初めて、沢山の命、笑顔、幸せを奪い去っていった津波を知った
 過日、津波で高校のクラスメートが亡くなっていた事を知った 
 とてもやるせなく 悲しい思い いくら願っても もう二度と会うことも 
声を聞くことすら叶うことはない 僕の3月11日

すみとしお

ピーターパンデイサービスセンター(会津)

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アズで〜す。会津のピーターパンデイサービスセンターを紹介するね。今でこそ、八重の桜で盛り上がってるけど、震災から、ふくしまは風評被害があって仕事が減ってしまった。でも、前に向かって、がんばっている所が、会津の人ってかっこいい。がんばっぺ!ふくしま。

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忘れもしない2011年、3月11日、14:46分。私は入浴介助のため浴室にいました。突然、入浴していたはずの利用者さんが「かっぽん!かっぽん!」と左右に激しく移動し、まるで大海原を漂っているような光景に、我が目を疑った。事業所内は悲鳴と建物のきしみ音、人の飛び廻る激しい足音が恐怖と共に響き渡っていた。この恐怖体験で、座って食事が出来ず、立ったまま食事をするようになってしまった方や、建物のきしみ音に敏感に反応し、声を上げてしまう方、少しの揺れで動けなくなってしまう方。震災の影響は半年くらい続きました。幸い、ガス、水道、電気等のライフラインは途切れなかったのですが、ガソリンだけは供給がストップし、3月19日から27日まで事業所を閉鎖せざるを得ない事態になってしまいました。通所出来ないストレスで心の不安定に陥る方もいらっしゃいました。

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3月28日からガソリン供給も通常に近い状態に戻り事業所を再開したのですが、今度は原発の風評被害に苦しめられるとは思いもよりませんでした。会津は原発から100k離れていて、実際、放射線量を測定しても0.12位、まさか「会津も危険だ!」と観光客が激減し、鶴ヶ城や野口英世青春通りは、人が行き交うのもまばらになってしまったのには、正直驚き、これから会津はどうなってしまうのだろうか?と呆然と立ちすくんでしまいました。さらに追い打ちをかけたのが観光客の激減で土産品が売れない事、我がピーターパンデイサービスセンター就労B型の赤ベコ塗り作業も観光客に頼らざるを得ない状況、不安がよぎりました。そして、とどめのカウンターパンチがもう一つ、電子部品の組み立て作業、「会津の電子部品は放射能汚染で使えない」との風評被害。以来、電子部品組立作業はなくなってしまいました。

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全国のみなさんには、正確な情報を!と叫んでも、一度塗られた絵の具はそう簡単には消えてくれませんでした。
会津には大熊町、楢葉町の方々が避難され、仮設住宅で不自由な生活を送られています。その中には障がいを持った方々もおられ、我がピパネットでも大熊町の方が生活介護を利用されています。定期的に大熊町を訪問し、「自宅に残した荷物を持ち帰りたいが、持って来れねえんだ~」と悲しそうな表情を浮かべます。ふるさとに戻れない悔しさは、誰にぶつけたらいいのでしょうか?

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現在、会津は「八重の桜」効果により観光客は増加しています。特に「大河ドラマ館」周辺は土日ともなると大渋滞で、土曜の送迎は周辺を通行しないようにしている程です。ただし、この賑わいも、今年限りと噂されています。大河ドラマが終了した来年はまた、人通りもまばらな会津に戻ってしまうのでしょうか。会津の幕末史に光があたり、永続的な興味、関心を持ち続けて行って欲しいと願わずにはおれません。

あかべこ

ピーターパンデイサービスセンターは生活介護21名、就労継続支援B型10名の多機能型事業所。運営は当初から少数派の有限会社。でも会社組織でフットワークも軽く、風通しのよい事業所です。前述したように民芸品「赤べこ」の赤塗り作業が大きな収入の柱になっています。全国のみなさん!会津に来てもう一つの幕末を学び、そして赤ベコ絵付け体験を行いましょう!

有限会社 ピパネット
ピーターパンデイサービスセンター
〒965-0103
福島県会津若松市真宮新町南4丁目78番
TEL/FAX0242-58-1131
Eメール:pipaday@bz03.plala.or.jp
http://pipanet.hiho.jp

児童デイサービス「フェザー」(鏡石町)

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「フェザー」のある鏡石は、福島県の中通りの郡山市、須賀川市の南部にあるよ。地震の被害が大きかった地域です。事業がスタートする時に、震災があったんだけど、それでも立ち上がった「フェザー」。すごいな〜。みんなも応援してね。
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津波の被害はなかったものの、県内でも甚大な被害を受けた岩瀬郡鏡石町。
平成23年4月1日「児童デイサービス  フェザー」の開所予定で、順調に準備は進んでいた。

平成23年3月12日に予定されていた内覧会の準備に追われていた3月11日の午後・・警報音とともに町が崩壊していく様子を目の当たりにして、目の前が真っ暗になりました。

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1年前からこつこつと開所準備を進め、利用希望のお子さんのアセスメントを早めにいただき、一つ一つ手作りで教材をつくり、パーテーションを作り、視覚化構造化を行ってきた教室、プレイルーム、自立課題エリア、対面学習エリア、集まりエリアなど、医療機関とも連携してスーパーバイズいただきながら作り上げてきたものが一瞬にして崩壊・・・

2週間後の開所を前に、作り上げてきたすべてが崩れてしまった絶望感。

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心が折れかけた時、支えてくれたスタッフたちと町の健康福祉課のみなさん。そして療育を必要とするお子さんを想像し、スタッフと「鏡石町初の児童デイサービス」を実現するために、スタッフと自転車で事務所へ通い、バラバラになった資料や教材、倒れたパーテーションなどを修理し、断水が長かった鏡石町の給水のタイミングに合わせて戻り・・・

自分の家族を守ることですらいっぱいだったはずなのに、どこからあのエネルギーが湧いたのか・・・を考えてみました。

あの時の、私たちのすべての原動力は「この地域で療育機関が必要なんだ!待っているお子さんが居るんだ!」との熱い願いと、立ち上げ前から支えてくださった鏡石町と勤務予定のスタッフ、そして保護者さん達が私の機動力となり、児童デイサービス・フェザーは奇跡的に立ち上がり、4月1日に予定通り開所することが出来ました。

華やかな開所式も何もできなかったけれど、開所日に笑顔で通ってくれたお子さん達を見て、願いが実現した喜びが心に沁みわたり、心が折れそうだった私たちにエネルギーをくださった「地域力」の素晴らしさを感じています。

一人じゃ何もできないけれど、スタッフのチーム力、そして地域全体がチームになる事で不可能が可能になる事を体験しました。
素晴らしい経験をもとに、さらに強く羽ばたいてゆきたいと思います。

(文責)
NPO法人地域生活サポートセンター鏡石 フェザー
副理事長(兼チーフ) 徳永牧子

エル・ファロ 自由空間

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いわき市は、福島県の浜通りの南方にあり、津波の被害が大きかった地域だ。今、復活してきた「自由空間」のなかまは、輝いてる。大変な時期を乗り越えてきたから、今、生きることが大事ってことがわかるんだなぁ。それにしても、みんな、いい表情してるなぁ。

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社会福祉法人 エル・ファロ 自由空間はいわき市植田町にあります。以前は勿来保健所として使われていましたが、現在は自由空間(生活介護・生活訓練)として、なかまが笑いあって、ぶつかりあって、一緒に喜び、いろんな活動をして、日々楽しくなかまひとりひとりの大切な居場所となっています。

エル・ファロ自由空間01

最近は震災後初の旅行に会津まで行ってきました。あいにくの雨でしたが、久々の旅行になかまは興奮して、落ち着かないなかまやバスの移動で盛り上がりすぎて疲れてしまったなかまなど、スタッフも含めてみんな一日夢のような時間を過ごしていました。記念撮影もしていい思い出を作ることもできました。

エル・ファロ自由空間のなかま02

このように、自由空間が全員今日まで過ごせてきたのは、何のことないきょうされんはじめ、全国から多くの人的物的支援が続いているからこそなのだと実感します。

2011年3月11日・・・
あの時私たちは、なかまの送迎が始まる時でした。いきなり、体験した時のない揺れが襲い、どこからともなく悲鳴の声が聞こえ、みんな戸惑い、なんともいえない大きな恐怖で身動きひとつできませんでした。ブロック塀は崩壊し、水道管は破裂し、電柱は傾き、現実に起きているようには思えない現実でした。地震がおさまった後、なかまを安全な場所に避難する為、2階に誘導しました。近くの川の逆流している状況を知って、高いところに避難しようと近所の人や海の方から車で逃げてきた人も自由空間に駆け込んできました。幸い、津波は玄関の前までで施設内には影響がなく、全員無事でした。

それから、なかまやスタッフ、近所の人たちで炊き出しをして、一晩泊り込みました。水は自動販売機の水を買えるだけ買い込み、食糧は弁当を作っている「わが家」の食材を使いました。
一泊した後は、みんな自分たちの家に戻り、水道が出るまで施設閉鎖となりました。
それからは、身寄りのないグループホームやケアホームの人たちと数人のスタッフで茅ヶ崎まで避難したり、支援物資の配布があったら、みんなで取りに行ったりと一日でも早く再開できるようスタッフは動き回っていました。その中で、今でも忘れられないのは、支部の会津勢からガソリンがいわきに届けられたことです。移動に関してはいわきは車がないと不便な土地です。ガソリンがないというのは、水と同じくらい重要なことで、当時ガソリンの確保はどうすればいいのかと頭を悩ませていたところにいち早く届けていただいて、私たちは本当に救われ、涙がこぼれる想いでした。
その4,5日後に水道は回復、4月1日には開所することができました。

エル・ファロ創造空間03

あれから私たちは約2年と3ヶ月の月日が経ち、助成金や支援物資、県外から応援してくださる人たちに支えられ、多くの人たちからいろんなことを学ばせていただきました。きょうされんの支援があればこそ、自由空間はここまで来ることができたといっても過言ではありません。
本当に支部の方々ありがとうございます。

エル・ファロ創造空間のなかま04

これからはこの全国大会に向けて、自由空間のラテンパーカッション部隊は日々、「風になりたい」を練習して、大会の成功させたいと思います。私たち自由空間にとって、この全国大会が「はじまり」であり、大きな一歩となります。これまで支援していただいた人たちに対しての感謝を全国大会で伝えていきます。

                                自由空間 佐藤見地

「はじまりの美術館」のはじまり。

ハマーblank
生きることは表現すること。
今、ふくしまから、アートで生きることを表現していこうとしている人がいる。
この再生に向けての活動は、ふくしまの希望になるだろう。

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「はじまりの美術館」のはじまり。

東日本大震災から四度目となる2014年の春、福島県の中央に位置する猪苗代町に、ちょっと変わった美術館がオープンします。名前を「はじまりの美術館」とする予定です。

ここ福島県では原発事故による避難は引き続き先の見えない状況が続いていますが、高線量地域を除いた各地では復旧作業が進み、人々の生活は日常を取り戻しつつあるようにも見えます。
その一方で、被災地では「地域がもともと抱えていた問題」が震災前に増して顕在化しているといわれます。加速する少子高齢化、地域コミュニティの疲弊、失われつつある歴史や伝統・・・。地域が長い年月をかけて培ってきた文化(文物・記憶・関係・歴史)は、その土地の財産であり、そこに住まう人々の生きた証とも言えます。それらが物理的にも、伝承的にも途絶えつつあるというのは、とてももったいなく、寂しい限りです。例えるなら、祖父母の代から通った学校が廃校で取り壊され、歌い継がれた校歌も歌える人がいなくなる、といったところでしょうか。そういった状況が被災地域では広範囲に、あるところでは地震や津波の災害で目に見えて、またあるところでは原子力災害による県外避難が拍車をかける過疎化によって人知れず、進行しているのです。
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十八間蔵・昨年の様子2
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そのような中、今「アート」の力が注目を集めています。「アートによる地域の再生」という言葉を耳にするようにもなりました。地域にもともとある資源を、アートを媒介として新たな切り口でとらえ直し、若い世代に地域の魅力を再発見してもらう、地域を掘り起こすというもので、各地で様々な取り組みが展開されています。また、障がいを持つ方の優れた芸術表現も「アール・ブリュット」や「アウトサイダー・アート」など、「アート」という文脈の中で関心が高まっており、国内にとどまらず、ヨーロッパでは各国を回る巡回展が開催されているほどです。
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蔵内部2

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支援員である私は知的障がいと言われる皆さんの表現に身近で接するにつけ、(誤解を恐れず言葉にすれば)その勢いだったり、執拗さだったり、思いもつかぬ発想だったり、受けるエネルギーだったりといったものに尋常ならざるものを感じ、その筆舌に尽くせなさ具合を、奇異に感じたり、感心したり、驚いたり、呆気にとられたりと、様々な感情を喚起させられてきました。福祉事業所内で繰り広げられるそれら表現を目の当たりにして、私たちが思ったのは「もったいない!」です。こんなことを自分達だけが味わっているのは「もったいない!」と。そこには、人を惹きつける魅力とともに、現代社会の閉塞感を打ち破って乗り越えていくための、様々なヒントやパワーが溢れているのでは?そんなふうに感じています。
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蔵壁面

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そのような中、私たちは機会を得て、猪苗代町で震災を持ちこたえた「十八間蔵」という大きな蔵を美術館へと再生することになりました。築約120年といわれるこの蔵は、旧会津藩所領の山から伐り出された見事な材木を用い、建設当時は酒造蔵として、戦後はダンスホールや縫製工場として、町の人々に親しまれ、ともに年月を経てきたとのことです。そのような歴史を持つ建物を舞台として、この場所がアートを通した楽しみや発見、出会い、つながりの、はじまりの場所になればと考えています。
「アート」や「障がい」と聞くと、みなさんはどんなイメージを持つでしょう?どちらも馴染みのない印象を受けるかもしれませんが、じつはなにも身構えることのないものごとで、私たちの中や身近にあって、私たちひとりひとりの生を豊かにしている、欠くことのできない一部、なのではないでしょうか。今回設置する美術館は、そういったことを前置きなしにでも、直感的に感じ、体験してもらえるような場所となり、いろんな楽しみを皆さんと積み重ねていければと考えています。その中で、福島の置かれている状況や私たちのこれからについても、感じ考えるきっかけとなれば幸いです。

              社会福祉法人安積愛育園 はじまりの美術館準備室 岡部兼芳