えんどう豆(南相馬)
アズで〜す。
南相馬の「えんどう豆」を紹介します。
小さなアットホームな雰囲気の作業所です。
震災後、津波で海岸に近い集落は、家のコンクリートの基礎だけ残し、ふるさとの風景自体がなくなってしまいました。数日まであったあの風景を、もう見ることができないと思うとつらかった。津波は、人の過去さえ、奪ってしまうものでした。被災した現場に、自衛隊、消防、警察が入り、捜索と後片づけをしてくれていました。携帯、電話がつながらず、自宅待機。水道が止まり、テレビ、インターネットもだめ。街は自衛隊の車両が走り回っています。スーパー、コンビニも閉じて食料の入手が困難になり、ガソリンも買えず動きがとれない状態になりました。
「えんどう豆」は、津波の被害はありませんでしたが、原発事故のため、メンバーは全国各地に避難しました。当時は、再開できないのではないかと本気で思っていました。失ってはじめて、えんどう豆と研修生、そしてふるさとの相馬、南相馬が自分にとって大切なものであったことを実感しました。
南相馬市は、原発から20キロ圏内は「警戒区域」となり、住民は強制的に避難させられました。30キロ圏内は、「緊急時避難準備区域」となり、子どもや病院、要介護者が入らない事を求められました。それでも避難生活に耐えきれなくなった方の多くの人が、南相馬に戻ってきていました。障がいを持つ人たちの多くが、避難先での生活になじめず、戻ってきたおり、市内の福祉作業所は再開していきました。子どもがいる職員は避難してしまって再開できないでいる作業所もありました。「JDF被災地障がい者支援センターふくしま」の協力により、全国からボランティアが、南相馬に入り作業所を支えてくれました。えんどう豆は、6月に、同じ法人のビーンズより、職員を借りて再開しました。再開できたのはよかったのですが、やる仕事はありませんでした。震災前は、畑作業をしていたのですが、屋外での活動は放射線量の問題で心配があり、屋外での仕事は、今年も中止の予定です。
(畑は、毎日、散歩に行く場所になってしまいました。)
(神奈川に避難中のHくんの家族。)
その後も、職員を募集しても集まらない状態が続きましたが、震災から2年が経過し、やっと職員も入り、落ち着いた状況です。でも、日常を取り戻したのかと言えば、決してそうではないと思います。震災は2年前のことだけれど、放射能とはこれからも付き合っていかなければなりません。避難する人と福島に残る人。福島を愛する気持ちと放射線から命を守るという気持ち。人の意見は分かれ、家族も別れて生活する現状。何も変えようとしない国。これらの問題を一人ひとりが抱えなければならい状態にあるのです。
しかし、毎日、えんどう豆に通ってくる純粋に生きている彼らの姿を見ると、私自身がパワーももらっていることに気付かされます。そして、この人たちの幸せだけは守りたいなぁと思うのです。過ちを繰り返してほしくないし、人の命と幸せを守る国であってほしいです。