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今回は、岩手の「やまだ共生作業所」さんを紹介します。
岩手は海の近くに街の中心部があって、再開には苦労がある思います。
なかまの働く場所を守るため、移動手段の確保は、大事ですね。震災前と違ったニーズが出て来ています。
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社会福祉法人やまだ共生会・やまだ共生作業所です。
私たちのふるさと「岩手県山田町」は、東日本大震災で甚大な被災を受けました。
就労継続支援事業B型事業所「やまだ共生作業所」は、海から離れた所にあり、津波の被災はうけませんでした。利用者・職員は全員無事でしたが、利用者の父親や職員の奥さんが死亡するとか、理事長や管理者の自宅を含め、利用者・職員の家屋も多数流出・全壊しました。
私たちは、きょうされんの全国の仲間から物心両面にわたる支援を受けて、4月6日に作業所を再開するとともに、NPO法人:難民を助ける会等の助成を受けて、障がい者や高齢者へ支援物資を届けるなど、支援に力を入れてきました。
被災者が避難所から仮設住宅等へ入居してからは、2011年7月から毎週、当作業所に障がい者・高齢者を招いて「お茶っこの会」を開催し、理事長が町の復興等について話し、お茶を飲み、手料理を食べ、おしゃべりをし、カラオケを楽しんでもらい、生きる希望を育み、元気を出してもらう活動をしてきました。さらに、2012年8月からは、NPO法人:ゆめ風基金の助成を受けて、町内42ある仮設住宅団地の集会室を週1~2回巡回訪問し、お茶っことマッサージとカラオケの会も行っております。
何よりも、被災者に喜ばれているのが、NPO法人:ジャパンプラットフォームの助成を受けて、2011年7月4日からはじめた通院等の無料移送サービスです。2013年3月末までの利用者は8996人となっています。利用者は、障がい者と高齢者です。
町内で唯一の病院であった岩手県立山田病院が被災し、現在、町内の入院施設はゼロですし、開業医も一医院を除いて被災し、県立山田病院の仮設診療所を含めた四診療所が、地域医療を担っています。入院は、町外の宮古、釜石、盛岡の病院に入院するしかなく、大変な状況です。また、鉄道の復旧は未定であり、交通費は、被災者に大きな負担となっています。
こうした状況のもとでの、無料移送サービスは大きな支援となっており、2013年4月から9月末まで、また助成が決まり喜ばれています。
このように、被災地に暮らしながら、沢山の方々の支援を受け、被災者の支援を行っています。
そして、作業所の仕事はというと…、震災前から町内の店舗や各家庭をまわり、廃品回収を行っていました。
震災後、町は壊滅的な状態でしたが、避難所や被災していない地域を回り、仮設住宅・店舗が出来てからは、更に毎日忙しく廃品回収を行っています。
これから本格的に暑い夏を迎え、外での作業が大変な時期になりますが、利用者さん・職員一丸となって、汗を流しながら頑張っていきます。
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北海道から、ハマー・アズ・ナカのパペットがやってきた。
作ってくれたのは、スワンの家のユウスケさん。
ふくしまのみんなは、超~盛り上がりました。感謝、感激です!
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北海道の東に位置する別海というところにあるNPO法人スワンの家の紹介をします。就労継続支援B型(27名在籍) 地域活動支援センター(17名在籍)のふたつの事業を行っています。
人口16000人で、牛の数がその10倍はいるといわれる酪農地帯にあります。別海の面積は香川県と同じくらい広く、農村地帯は、隣の家まで行くのに、5キロは歩くのが普通です。広い牧場に牛がたくさん放牧されています。そんな土地柄に、別海町ではじめてできた作業所が、スワンの家です。今年で25年をむかえます。
仕事の内容は大きく4つあります。ひとつ目は、廃油でつくるせっけんです。創立当初から、試行錯誤をしながら作り続け、7年前、地域の方々の寄付金で、本体とは別にせっけん工房を建てました。2つ目はパン・菓子工房で作る製品です。おいしくて、けちってなくて、大人気です。3つめは清掃部門です。公共施設の清掃や環境整備を3か所請け負っています。4つめは「カフェ」の営業です。これは国と町の補助を受け、昨年新築した共生型福祉施設「ふれあいの家」の中にあります。窓越しからお菓子を作っている様子が見え、作る人と、買う人の気持ちのやりもらいもできます。公園に面しているカフェのお客様は、福祉とは縁のなかった方々にも広がり、「カフェで働く利用者さんを見るようになって、一生懸命がんばっていることがわかり、今では障がいに偏見を持っている人の方がおかしいと思うようになった」とおっしゃる方もいらっしゃいます。
仕事以外では、趣味や特技を生かした活動をする方々もたくさんいます。ハマー・アズ・ナカのパペットを作った彼も、スワンのメンバーの一人だし、音楽バンドJUKE*BOXは、音楽を通して自己表現し、そのことで、周りの人たちの感動を呼び、地域のお祭りやイベントにも参加するようになりました。リサイクルをモットーにし、廃品からさまざまな商品紹介のグッズなども手作りしています。
東北の震災のあと、毎朝、みんなで声に出して確認し合っているスワンの心得の中に「一期一会の気持ちであいさつをかわしましょう」というのを加えました。あの時、失った命からも、懸命に生き抜いた命からも、そのことを何よりも学びました。
トラブルは毎日のように起こり、日々の忙しさに追われていると感じることはありますが、かけがえのない一人ひとりが、それぞれの花を咲かせ、その香しい香りや美しさを、周りの仲間みんなであじわえるような作業所でありたいです。
NPO法人スワンの家 今井 真琴
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突然ですが、パペットを作ったユウスケさんにインタビューのコーナー
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つなぎ, 未分類
岩手の陸前高田の「あすなろホーム」さんからの「つたえ」のレポートです。
岩手の海岸部は、中心市街地が海側にあって、大きな被害が出ている。でも、みんな支え合って、生きてきたんだなぁと思う。
かんばっぺし、岩手!
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大切ないつもの暮らし
3月11日 (金) 午後2時46分
強い地震の後、大津波に襲われました。あすなろホームは、高台にあったため難を逃れましたが、黒い水と土ぼこりやしぶきそして高田松原の松とともに私たちの大切な人や場所がみるみるうちに津波に飲み込まれてしまいました。
その時あすなろホームでは、午後の休憩が終わり作業を開始したばかりでした。強く長い地震に皆怯え戸惑いましたが、一緒にいたことでお互いを力にし、誰一人パニックにならずに済みました。その夜は、地域住民と作業用のホッカイロで暖を取り、販売用のお菓子を分け合って不安な夜を過ごしました。
いつもの・・・
3月中は避難所として、家族が迎えに来るまで利用者とともにあすなろホームで過ごしました。通所施設のため、非常食や寝具そして反射式ストーブなどを何とかしようと動き回っていました。みんなはすることもなく作業場に集まってただラジオからの悲しい情報に耳を傾けているばかりでした。ふと気がつくと口数が少なくなり、笑顔が消えていました。現状がよくわからない不安と、家に帰って家族と過ごせない寂しさがあったのでしょう。そこで3日目からは、係り分担をし、掃除・川へ水汲み・料理そして残っていたいつもの作業を少しずつ始めました。体を動かすことにより心も動いたのでしょうか、いつもの表情がだんだん見られるようになってきました。
4月に入り、生活状況確認に職員が手分けをして回ると、避難所や親戚宅での生活は、周りの人との関係が本人にとっても家族にとっても厳しく、通所開始を望む声が多くありました。できることから始めようと考え、津波・地震の被害が少なく、車で送迎できる範囲の方のみを対象に、4月4日から通所を再開しました。初日は12名の利用でしたが、再開したことを地域の新聞で広報したところ、なんと市外の利用者が家族に送られて通所してくることもあり、すぐに20名を超えました。こんな時だからこそ、いつもの場所でいつものように作業することが利用者の精神安定にも繋がること、そして家族が次に向かっての行動(片付けや手続き・安否確認など)ができる時間が確保できることなど、通所施設の必要性を強く感じました。
働くということ
当施設での活動は、お菓子作りなどの食品の製造と販売・民間企業などからの下請け作業でした。これまでの販売先の市役所・道の駅・各企業そして私たちを作業所時代から暖かく支えてくれた住民宅が、津波の被害にあったため、お菓子を作っても売り先がなくなってしまいました。数箇所あった下請けの作業も企業が流れたり、生産しなくなったりしてなくなってしまいました。
それでも、毎日通所してくる利用者の笑顔が増えるように、知り合いの企業の計らいで新しい袋詰め作業を始められたり、残っていた材料でお菓子を焼いて、今までお世話になっていた地域の方々に届けたりしました。仲間と共に作業に夢中になったり楽しい話をしたりしていると、家が流れたことや自分の大事なものを失った悲しみがその時だけでも忘れられたのか、笑顔がこぼれる人が日に日に多くなっていったように覚えています。みんなの暖かさ、仲間という絆の強さがあったからこそ、私自身も前を向いて歩み続けられたと感じています。
心より感謝
震災後、全国の皆様からいろいろな支援物資だけでなく、たくさんの暖かい言葉をかけていただきました。だからこのような状況になっても私たちは『ひとりではない』ということを強く感じ、頑張り続けてこれました。2年半がたとうとする今でも、皆様の暖かな支えには感謝の念でいっぱいです。
陸前高田の町は、まだまだどこに町ができるのかもわからない状態ですが、「また売りに来てもいいよ。」という声に励まされ、週に3回ペースで地域に出かけ訪問販売を再開しています。お客様と笑顔をかわす喜びを実感しています。また、全国の皆様が行ってくれる復興イベント等での販売に商品をたくさん送らせていただきました。今後も「ようし、売るぞー。」と思っていただけるように大切に商品を仕上げ、商品開発にも取り組んでいきます。
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ハマーくん、
きょうされんの全国大会のバッジ、レポートに南相馬まで、行ってくれ。
「了解、ボス!」
今年、福島の郡山市で開かれる「きょうされん全国大会」。震災後、東北の復興を願い、合同で企画し準備が進んでいます。協賛して頂いた皆さんに、バッジのお礼をすることになりました。
今、南相馬のなかまたちが、バッジ製作の作業に入っています。写真は、団体協賛の方に送るバッジの詰め合わせです。一個、一個手作りで、心を込めて作っています。応援、よろしくお願いします。
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アズで〜す。
南相馬の「えんどう豆」を紹介します。
小さなアットホームな雰囲気の作業所です。
震災後、津波で海岸に近い集落は、家のコンクリートの基礎だけ残し、ふるさとの風景自体がなくなってしまいました。数日まであったあの風景を、もう見ることができないと思うとつらかった。津波は、人の過去さえ、奪ってしまうものでした。被災した現場に、自衛隊、消防、警察が入り、捜索と後片づけをしてくれていました。携帯、電話がつながらず、自宅待機。水道が止まり、テレビ、インターネットもだめ。街は自衛隊の車両が走り回っています。スーパー、コンビニも閉じて食料の入手が困難になり、ガソリンも買えず動きがとれない状態になりました。
「えんどう豆」は、津波の被害はありませんでしたが、原発事故のため、メンバーは全国各地に避難しました。当時は、再開できないのではないかと本気で思っていました。失ってはじめて、えんどう豆と研修生、そしてふるさとの相馬、南相馬が自分にとって大切なものであったことを実感しました。
南相馬市は、原発から20キロ圏内は「警戒区域」となり、住民は強制的に避難させられました。30キロ圏内は、「緊急時避難準備区域」となり、子どもや病院、要介護者が入らない事を求められました。それでも避難生活に耐えきれなくなった方の多くの人が、南相馬に戻ってきていました。障がいを持つ人たちの多くが、避難先での生活になじめず、戻ってきたおり、市内の福祉作業所は再開していきました。子どもがいる職員は避難してしまって再開できないでいる作業所もありました。「JDF被災地障がい者支援センターふくしま」の協力により、全国からボランティアが、南相馬に入り作業所を支えてくれました。えんどう豆は、6月に、同じ法人のビーンズより、職員を借りて再開しました。再開できたのはよかったのですが、やる仕事はありませんでした。震災前は、畑作業をしていたのですが、屋外での活動は放射線量の問題で心配があり、屋外での仕事は、今年も中止の予定です。
(畑は、毎日、散歩に行く場所になってしまいました。)
(神奈川に避難中のHくんの家族。)
その後も、職員を募集しても集まらない状態が続きましたが、震災から2年が経過し、やっと職員も入り、落ち着いた状況です。でも、日常を取り戻したのかと言えば、決してそうではないと思います。震災は2年前のことだけれど、放射能とはこれからも付き合っていかなければなりません。避難する人と福島に残る人。福島を愛する気持ちと放射線から命を守るという気持ち。人の意見は分かれ、家族も別れて生活する現状。何も変えようとしない国。これらの問題を一人ひとりが抱えなければならい状態にあるのです。
しかし、毎日、えんどう豆に通ってくる純粋に生きている彼らの姿を見ると、私自身がパワーももらっていることに気付かされます。そして、この人たちの幸せだけは守りたいなぁと思うのです。過ちを繰り返してほしくないし、人の命と幸せを守る国であってほしいです。
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神奈川から、支援に入った塩谷さん。
ずっと、福島を見続けて、心は共にあったよね。
くるみちゃんのTシャツも買って、神奈川の仲間と着てくれたよ。
みんな、福島が好きになって帰っていくよ。
JDF、きょうされんの南相馬市への支援が始まったのは震災後すぐのことで、私が初めて南相馬を訪れたのは2ヶ月半後の5月の末でした。
それから今までに5回支援活動に参加させていただいています。
活動内容は、訪問調査と事業所支援です。
訪問調査では、障がい者(身体、知的中軽度)のご自宅、民生委員さん、区長さんのお宅を訪問し、色々な方のお話をたくさん伺うことが出来ました。
立場によっては、責任感や思いが強いほど深く傷ついていると感じました。
国、県、市の制度や補償金では補えないものがたくさんあります。
人の心に触れられるのは、やはり人なのだと強く思いました。
また、原発事故は身体の健康より先に「自分らしさ」を奪うということを知りました。
訪問調査を終え車で神奈川に帰る途中、首都高で荒川沿いから見える東京の景色を見ました。
1週間南相馬で見聞きしたことを思い返し、なんとも言えない複雑な気持ちになったのを覚えています。
事業所支援では、ビーンズ2回、えんどう豆、あさがおに1回ずつ支援に入りました。
初めて行く場所で支援活動ということで、不安と緊張がありましたが、どんなことでも、ほんの些細なことでもみなさんと共感できることを探しながらのあっという間の一週間でした。
利用者さんはカンバッチ作りや資源回収、メール便、仮設商店街のトイレ清掃などをそれぞれのペースで作業をしていました。
仕事があること、誰かの役に立っていると感じることが人にとってどれだけ大切かを知りました。
職員さん一人一人の決断と、日々の関わりの積み重ねにより利用者さんの笑顔が増え、利用者さんの存在と笑顔により職員さんはエネルギーをもらっている姿が見られました。
それから何度か南相馬に行くうちに顔なじみになり、共通の話題も増え、再会の喜びを感じられるようになりました。
また街のあちらこちらに思い出の場所が増えていき、好きな中華料理屋さんもでき、南相馬に愛着が湧いてきました。
南相馬の現状を見聞きし、感じたことを周りに伝えなければならないと考え、少しずつですが折に触れ実行しています。
そして、被災地を見ていない人へ自分の事としてとらえてもらえるには何をどう伝えたら良いのかはこれからも自分の課題でもあります。
活動に参加した中で強く感じたことは、「真実を知ろうとすること」の重要性と、「ひとりでは大変なことでもみんなでやると出来る。時には楽しく乗り切れる」ということでした。
「ひとりを大切にしつつ、たくさんの人とつながる」ということです。
これからの自分の仕事、人生に活かしていきたいです。
最後に、南相馬で働く職員の方々や利用者の方々とこれからもお互いを近くに感じられるような距離感でいられたらすごく嬉しいです。
神奈川県 第三シャロームの家
塩谷祥策
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福島第一原発に近い波江町にあった「アクセスホームさくら」。住んでいた波江には、戻ることは出来ません。
避難したメンバーを集めて、二本松市で再開するまでの努力は、ハンパないね。
自動車の部品の下請けの仕事ができなくなり、今では、おいしいお菓子を作ってる。
応援しとるぜ!みんな、よろしく!
さくらの笑顔が戻ってきました
3月11日の震災後、さくらは避難を余儀なくされ全員ばらばらになってしまいました。
「もう一度、みんなで仕事がしたい!」との思いがかなって、平成23年8月1日に二本松市で事業再開することができました。
利用者さん全員は戻ってくることはできませんが、13名の笑顔が戻ってきました。
さくらは全国から、たくさんの方々にご支援を頂き以前のように、みんなで活き活きと活動することができるようになりました。
震災後から始めたお菓子作りも順調に実績を伸ばすことができ、皆様から「美味しい!」との声を頂いています。
今後も笑顔になれる美味しいお菓子を作って福島の復興につなげられるよう、がんばります!
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