にんじん舎(郡山)その2
にんじん舎の第2回目です。こだわりのうま〜い食材を、手間ひまかけて作っています。たしか、ウインナーは、南相馬の小高区にあった工場に加工してもらってたんだよね。あの味、忘れられないなぁ。震災後、みんなにその食材を配って、すごい事だと思います。原発事故の後、当たり前の暮らしが大事って事を、いろいろ考えさせられます。
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自宅待機が2週間続きましたか、にんじん舎の女性職員も動きまわっていました。
にんじん舎の食料を、食料が手にはいらない人たちに届けまわっていました。
農場のみそ、黒米、餅、養鶏場のフランク、ウインナー、つくね・・・・。
そして、産み続けるにわとりの卵。にんじん舎の加工場は忙しかったです。
しかし、みんな悩みながら働いていました。原発は?放射能は?
彼女は、あの「たまごやさんちのシフォンケーキ」を、今も焼き続けています。
その2 小泉理保子
「家族の誰も福島を離れることはできないから、一人だけでもいきなさい。
もちろん、行くか、行かないかは理保が決めなさい」
震災直後、父は職場で管理職として、一人対応に明け暮れていました。母は、特別養護老人ホームで働いており、関連施設が被災し、受け入れのため慌ただしい日々を過ごし、帰らない日もありました。姉は医療従事者として病院に勤めていました。弟は消防士です。連続勤務の中、休むために帰宅し、泥のように眠る姿が印象的でした。
私は、職場からほど近いアパートで姉と二人で生活をしていました。しかし、水道がストップし、余震の恐怖から、二本松東和の実家に戻りました。幸いにも家族の誰もが無事でした。
はじめは、「大地震」という自然の力に、人間の非力さを感じていました。ですが、過去の歴史から時が過ぎれば、傷ついた者は癒され、傷跡は小さくなると頭のどこかで思っていました。今の混乱を越えればゆるやかに元の生活に戻れると思っていました。ところが現実は違いました。今なお地震よりも私たちの生活に濃く影を落とし続ける原発事故が起こったのです。
原発で爆発事故のあった日の夜に、父から冒頭のことを告げられました。
「おば達といとこを連れて新潟の知り合いの家に・・・・・・。」実家は原発から40キロの地点にありました。
隣は、避難区域になっている浪江町。近くの公民館には、一時的に避難してきた人たちが多く集まってきていました。でも、父の言葉に答えはでませんでした。
同じころに、職場でも、「今はなにが起こってもおかしくない状況にあるから、家族のそばにいること」を進められました。緊迫した状況の中で、自分にむけられる暖かな心に感謝しました。何を選べば後悔しないのか、正しい情報はどれなのか、混乱と不安で涙が止まりませんでした。
それでも、自分で決めなくてはならない。私のことだから。
予断を許さない状況の中で、もう一度原発に異変があったら避難しようと決め、家族のそばに、大切なここに残ることを決めました。
そして、現在もここ福島で生活しています。事故後の一番の変化は、おじいちゃん、おばあちゃんの育てた野菜を全く口にしなくなったことです。買った野菜を食べ続けて、家の野菜の美味しさに気づきました。風景に何の変化もないのに、霞がかかったような違和感を感じることがあります。見えない壁が現れては、私たちが近づくのを遮り、また私たちも足を止めてしまいます。今でもその繰り返しです。放射線の体への影響は気になりますが、情報を得ることで、心配しすぎないようにしています。
今に生活を楽しみながら、大切な人たちと福島で過ごしていきたいと思います。