にんじん舎(郡山)その1
アズで〜す。郡山のにんじん舎を紹介します。
震災があって、津波の被害があって、追い打ちをかけるように起きた原発事故。
浜通り(海側)の作業所が、中通り(県中)のにんじん舎に一時避難した。その後、被災した地域の障がい者の避難状況を調査し、支援物資を届ける活動を行ってきた。だがその時、放射性物質は、にんじん舎にも被害をもたらしていたのだった。戦いは今も続いている。その根底にあるのは、ふくしまへの思いと人間と自然への愛です。
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捨てるにはまだまだもったいないものを活かし、
循環型養鶏や農作業に取り組んできたにんじん舎。
農場には、保育園の子どもたちが芋掘りにきたり、
認知症のおじいちゃんおばぁちゃんたちが畑に遊びに来たりしていた場所でした。
養鶏場の鶏も、運動場でミミズを食べ、風とおひさまをいっぱい浴びて過ごしていました。
地震のあとのことを職員が書いてくれました。
その1 山浦幸喜
私は、普段、にんじん舎で障がいの重い人たちと養鶏の仕事をしています。
3.11の時はにんじん舎のある郡山市も大変な状況にありました。
水や食料が手に入らず、ガソリンなどの燃料もなく、大きな余震も頻繁に起こる状況でした。
そんな時に私は、小さい子どもさんを抱えて県外に避難したBDF(バイオディーゼル燃料)担当職員のピンチヒッターで製造を任されることになりました。実は、地震のあと福島原発が水素爆発を起こし、きわめて危険な状況だったので、障がいのある利用者さんは、仕事を休み自宅待機や避難を2週間ほどしていたのですが、地震の次の日、宮城県障害福祉課長さんから「人工呼吸器などの電気を使う医療機器を停電で、自家発電でなんとかまわしている。しかし、発電機をまわす燃料が手に入らない。難民を助ける会さんからにんじん舎でBDF燃料を作っていることを聞いた。なんとか分けてもらえないか。」という電話がありました。震災直後の燃料不足で、にんじん舎のBDF燃料を必要とされる方がたくさんにんじん舎を訪ねてこられました。ヘルパーさんの車両へ、緊急物資を運ぶ車両へ、医療機器をまわす自家発電機へ、食料を調達にいく車両へ・・・・・。毎日製造におわれる日々でしたが、困っている方になんとか届けることができました。「捨てられる天ぷら油を活かす」私たちがやってきた事が必要とされ、うれしく思いました。卵も、食肉加工品も、もちやみそも届け続けることができました。にんじん舎は災害に強いとも実感しました。
しかし、状況は一変したのです。放射能が拡散し、大地が汚染されてしまいました。にんじん舎の畑で作物は作れなくなりました。鶏を外の運動場にはだせなくなりました。ビタミン、ミネラルたっぷりの畑の緑餌は食べさせられなくなりました。もみがら鶏舎の敷物もみがらは・・・・・・・・・・・。仕事でも、生活でも、今まで考えもしなかった事で悩み、何をするにも苦しい選択が強いられたのです。果たしてここにいて大丈夫なのであろうか?毎日が自問自答の日々でした。
私は、昨年の8月に結婚しました。妻は北海道の出身で北海道に住んでいたので、家族からは福島での生活はやめて欲しい。なぜ福島にいかなければならないのか?と反対がありました。悩んだ末に福島での生活を決めました。職場のある郡山市から20キロほど離れた放射線量の低い地域でアパートを借り生活する事になりました。通勤など多少大変な状況にありますが、安心のための決断でした。
現在は、5月に子どもが生まれ3人で生活しています。放射能に対する不安はまだ残っていますが、必要な知識と工夫でがんばって生きたいと思います。
9月に福島でおこなわれる全国大会は、そんな福島を知っていただくいい機会になると思います。元気のある福島をみなさんにお見せしたいと思います。