2017.3.11 震災から6年をむかえました。
「5年間みんなで一生懸命生きてきたよ。そして明日からもin南相馬」というイベントを
南相馬の事業所の仲間や職員が、多くの人たちに声をかけて
まだ避難指示が続いていた南相馬市小高でやった日、
熊本の本震が起きました。
会場に集った南相馬の事業所のみんなからは、「熊本になにかしたい」という声が
その日、応援に入った私たち福島支部の役員に、次々と寄せられました。
あの東日本大震災で
辛く苦しい思いをした人ほど、
たくさんの人たちに助けていただいた人ほど、
あの逆境に立ち向かってきた人ほど、
「熊本になにかを」と、即座に思っているんだと感じました。
しかし、3ヶ月後の
熊本の畑は、立派に作物が育ち、
熊本の街は、活気にあふれ、職場や学校に通う人たちでラッシュになっていました。
熊本から戻り、ついつい福島と比べてしまい、
重い気持ちになるのではと思ったとき、こんな話を聞きました。
「度重なる地震の恐怖は、十数万人の人たちで、熊本県内の避難所を埋め尽くした。
しかし、避難所から、どんどん多くの人たちが戻っていった。
お金のある人、身寄りがある人から戻っていった。
家を改修し、住める家を借り、息子夫婦に身を寄せ、親の元に助けを求め戻っていった。
3ヶ月たった今、避難所に残った人たちは、
身寄りのない高齢者、母子家庭、生活困窮者、そして障がい者。
以前から、生きることに多くの困難を抱えていた人たちなんです。」
あの時の福島と、なんら変わりがなかった。
そして、震源地益城町は、本当に震災直後のままでした。
福島のみんなは
今日まで一生懸命がんばってきました。
「みんなとつながっている。一人じゃない」と、思いながら。
「いつまでも、泣いてばかりはいられない」と、思いながら。
みんなのがんばりは、私たちの希望です。
でも、福島は苦しんでいます。
避難指示が解除され
「帰れるようになったんだよ。」といわれ、自分たちはどうするのか。
「帰ってこない人たちがいるから、福島の風評被害はなくならない。」そんな言葉を耳にしながら。
仮設住宅から、新たな道を多くの人たちが、選び始めています。
故郷の家に戻るのか
避難先の町に家を求めそこに住むのか、避難を続けるのか
新しい土地で復興住宅の暮らしを選ぶのか
でも、まだ決められない人たちが、がらんとした仮設の中に残っています。
福島の自殺者の数が、震災から4年後に増えていた事実。
私たちにも、時々襲いかかる孤立感、焦燥感、倦怠感。
障害者支援事業所職員労働実態調査で現れた福島の数字は、
「続けられない」人、「どちらともいえない」人の合計は
「5年後もこの仕事を続けたい」と答えた人の数を上回りました。
半数以上の人が、悩みながらこの仕事をしている。
そしてどちらともいえないと答えた人が、30代、40代、50代に山を作ってる事実。
うまくいったことも、うまくいかなかったことも、
とどまることも、戻ることも、
続けることも、やめることも、
その間で悩み苦しみながら、今、生きている。
どちらの事実も、知る努力を忘れず生きていきたいです。
どちらの事実も、認める努力を忘れず生きていきたいです。
私たちは、
ひとりぼっちじゃないと思える安心感
仕事があることのありがたさ
穏やかに眠れる場所の大切さ・・・・・・・・・・。
福島のみんなは、あの地震、津波、原発事故であらためて気づかされました。
戦争法案、やまゆり園事件、我が事丸ごと、原発再稼働
この国のこれから。
福島のこれから。
私たちのこれから。
この春、避難指示が新たに四つの町村で解かれます。
避難指示解除は、前進ではあるが、安堵だけではなく不安と迷いの伴う道のりです。
「福島の復興はマラソンにたとえると30キロ地点」という復興大臣。
でも、避難区域は、不安と迷いの五里夢中の道を歩き始めたばかりです。
第1原発の廃炉が解決の方向さえ見いだせないのに、安全だと玄海原発が動き出そうとしています。
でも避難区域の、福島の、私たちの苦悩は、明日からも光と影をごちゃ混ぜにしながら続きます。
あの日から6年。
原発事故さえなかったら・・・・・・・。
あきらめないけど、ひとりでがんばりすぎないで
みんなで、一歩一歩進みながら、明日を生きていきます。
「この国が
福島が
私たちが
同じ事を二度と繰り返すことがないように」 強く強く思い続けながら。
きょうされん福島支部役員一同