3月11日(月曜日)、タレントのカンニング竹山さんとTBC Dig のスタッフと一緒に、警戒区域の浪江町、昨年4月16日に警戒区域が解除された南相馬市小高区、そして津波の被害が最も大きかった南相馬市原町区萱浜(かいはま)を回った。
取材のテーマは「原発事故さえ無かったら」。



朝10時に福島駅を出発、途中川俣町にある双葉警察署浪江分署に寄り、この日現地を説明してくれる双葉警察署交通課長平野さんのパトカーの先導のもと、警戒区域の浪江町に向かった。
浪江町の手前、伊達郡川俣町山木屋は避難地域に指定されていて、立ち入りはできるが、居住はできない。無人の町を目の当たりにして、カンニング竹山さんが思わず、「今にも誰かが出てきそう。しかし誰れもいない。怖さを感じる」と呟いた。
牧場近くに来ると、放射線測定 器の数値が車内で5マイクロシーベルトを 記録し、カンニング竹山さんをはじめTBS のスタッフからも驚きの声があがった。
因みに福島の駅前の数値は、0.12マイクロシーベルトだった。
浪江町津島の検問所には徳島県警察から若い警察官が配属され、検問に当たっていた。
県外からの応援部隊は「ウルトラ警察隊」と呼ばれている。
福島市や川俣町、飯舘村、南相馬市などには「ウルトラ警察隊の皆さんへ。全国からの支援ありがとう」等の手書きのプラカードが道路脇に立っている。
2013年3月12日 |
浪江町

2011年12月12日(月曜日)。
カンニング竹山さんといわき市沿岸部を回った。
県内の高校で唯一、津波の被害を受けた、いわき海星高校を訪ねた。
津波で破壊された武道場を使い、師走の冷たい風の中、いわき海星高校の有志が「じゃんがら念仏躍り」を披露してくれた。
いわき海星高校では2人の生徒が津波の犠牲になった。
2人とも家族を助けに戻って、津波に流された。
当時の生徒会長の高橋裕基くんが中心となり、友への鎮魂といわきの復興を願って「チームじゃんがら」を結成した。
高橋裕基くんは野球部のエースとして活躍していたが、野球道具は全て流された。
「もう、野球は出来ないと思った」と高橋 くんは当時を振り返る。
震災直後、全国から支援物資が届けられた。
夏の大会に間に合った。
しかし、津波で瓦礫に埋もれたグラウンドは最近まで使用できなかった。
震災による不自由な活動を乗り越え、いわき海星高校は春選抜に出場する。
部員16名が、被災地の夢と希望を背負って、甲子園で堂々と闘う。
頑張れ、いわき海星高校野球部!
「後輩達が夢の舞台に立てる事で胸がいっぱいです。東北の被災地に元気を与えられるような、ハツラツとしたプレーを期待してます」と大学2年生になった高橋裕基くんは話してくれた。
2013年3月10日 |
いわき市

2011年6月13日(月曜日)。
震災から3ヶ月後、県立相馬高校をサテライトとして間借りしている、県立原町高校吹奏楽部を訪ねた。
カンニング竹山さんのいきなりの登場に、原高生、相高生から大きな歓声があがった。
当時の原町高校の八巻校長 先生の話に、カンニング竹山さんはただうなずいて聞いていた。
原町高校、相馬高校の生徒の皆さんの笑顔が忘れられない。
2013年3月10日 |
南相馬市
相馬高校稲村くんが東大に合格しました。
震災前は東大を目指していなかったのに、震災をきっかけに進路を変更しての、挑戦でした。
本人の努力が一番ですが、稲村くんを支援した先生達の努力にも頭が下がります。
相馬高校から東大合格は12年ぶりです。
被災地の厳しい環境の中での目標達成は、賞賛に価しますね。
福島県に必要なのは、教育と医療です。
それをあらためて、実感しました。
2013年3月10日 |
相馬市
今朝2時前に送られてきた感動のメールを転送します。
送り主は、3月1日に福島県立原町高校を卒業した沼能奈津子さんです。
沼能奈津子さんは、生徒会副会長や放送部長を務め、原町高校を引っ張ってきました。
推薦入学で法政大学社会学部に進みます。
将来はメディアの仕事につきたいと考えています。
沼能奈津子さんの思いは、浪江町のいや、原発事故で帰れない人達の悲しみ、怒り、不安、そして故郷への感謝の気持ちを代弁しているように思えてなりません。
夜分にすみません。ずっと考えていたらこんな時間になってしまいました。
大和田さん、おかえりなさい。美女はたくさんいましたか?フランスでの生活が充実していたことが伝わってきます。私もフランスいってみたいです!
★昨日、1年11ヶ月振りに浪江の自宅に一時帰宅しました。報告します。
変わらない綺麗な空、我が家。そんな風景に安心感を覚えながら自宅の周りを歩く。ピピーと放射線測定器が鋭い音を出す。自宅の線量は約3マイクロシーベルト。現実を知る。どんなに見た目が変わっていなくても確実に変わったことがある。放射線は目に見えず、以前と変わらない自宅を見ると帰れるかもしれないという錯覚を覚えてしまう。 しかし、それは違う。まだ帰ることはできない。中はねずみに荒らされていた。しかし、以前、両親が整理をしてきたのでそこまで汚れてはいなかった。友達にプレゼントして貰ったもの、集めていたもの、小中学校で使っていた教材などを見つける。ただただ懐かしい。一つ一つに思い出がある。小中学校の卒業アルバムは置いてきた。私が成長した証。それらを浪江の自宅から持ち出してしまうと、二度と帰れない気がする。生きた証を浪江の自宅に残したかった。
私が卒業した苅野小学校や浪江中学校にも行った。小学校周辺は約4マイクロシーベルト、中学校周辺は約5マイクロシーベルト。再び現実を知る。母校が荒廃していた。そんな姿みたく無かった。子供がいない学校はただ冷たい建物だった。
請戸にも足を運んだ。約0.1マイクロシーベルト。初めて見る地元浪江町の海岸。2011年1月1日に初日の出を拝んだ海岸。跡形もない。あるのは潮の香り。言葉にならなかった。カメラを回すことに抵抗を感じた。正直、怖かった。しかし、伝えなければならない。この言葉を自分に言い聞かせ、撮影した。警察官が捜索をしている。感謝の言葉しか浮かばない。
何度も目を塞ぎたくなった今回の一時帰宅。現実と向き合うことがどれだけ難しく、苦しいことか、改めて感じた。しかし、これから福島を離れるからこそ知らなければいけない現実だと思う。今回は、映像だけでは感じることのできないものを感じることができた。
2年間、沢山の葛藤や悲しみを身近でみてきた。その中で、他人の悲しみや苦 しみを背負うことができないもどかしさを感じた。背負うことができないなら、人々の苦しみや悲しみを汲み取り、それらの思いを社会に訴えかける存在になりたい。その方法を大学で見つけたいと思う。
正直、福島から離れることに負い目を感じることがある。私だけ現実から離れていいのだろうか。私だけ羽を伸ばしていいのだろうか。自問自答の日々。しかし、福島県外からの視点を養うことも重要なことだと思ようになった。東京でこれまで以上の温度差を感じ、嫌になることもあるだろう。それらの現実を含め福島県だけでなく、日本全国の現実と真っ正面から向き合っていきたい。
今回の一時帰宅は様々な意味で実りのあるものとなった。連れて行ってくれた両親に感謝している。
★とりとめもない長文失礼しました。拙い文章です。まだまだ伝えたいことがあります。もっと伝えられる文章を書けるよう修行します。最後まで読んで頂きありがとうございました。
沼能奈津子
2013年3月10日 |
南相馬市
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