第485話  本田武久さん追悼の集い

 
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6月30日(日)、昨年11月に癌で亡くなったテノール歌手の本田武久さんの追悼の集いが、いわき市小名浜のイタリアンレストランdon 3で行われ、生前本田武久さんの歌に励まされた人達40人が集まり本田さんを偲んだ。

友情参加してくれたのは、ソプラノ歌手の寺島夕紗子さんとピアニストの横山歩さん、それに、浪江町は請戸出身のシンガー門馬よし彦さんの3人。(寺島夕紗子さんの父・尚彦氏が反戦歌「さとうきび畑」を作詞、作曲)。

寺島さんは、生前本田武久さんが好んで歌っていた「アメイジンググレイス」や「さとうきび畑」等7曲を、門馬さんは本田さんが自身のblogで数ある復興songの中で最も被災者の心に寄り添っていると絶賛した「願い」や本田武久さんの為に作った「秋の風の中」等3曲を熱唱した。

最後は全員で「翼をください」を合唱して、追悼コンサートを締めくくった。

本田武久さんと生活を共にし、本田さんを看取ったヒロさんこと、田中宏和さんは御礼の挨拶の中でこう述べた。

『本田武久さんはdon 3で、2009年から震災の年の2011年までの3年間、12月25日のクリスマスにチャリティーコンサートを開いてきた。

2008年12月25日に本田さんは、癌を宣告された。クリスマスは本田武さんにとって特別な日だった。

それは、痛みと苦しみ、不安と絶望の始まりの日だった。

しかし、特別な日にdon 3で歌う事によって、本田さんは「歌う事は生きること」と気持ちを切り替え、前向きに明るく生きてきた。

常に12月25日は、don 3で歌う事を目標に』と。

会場には、東京から駆け付けてくれた矢萩淳さんの姿があった。

いわき市出身の矢萩さんは現在、東京で中学校の音楽教師をしている。

ゴルフスイング中にあばら骨を骨折、病院での診断は癌だった。

本田武久さんとdon 3の関係を知り、自分も歌う事で生きる証を残そうと、懸命にチャリティーライブを行っている。

矢萩さんは「くじけそうになった時、本田武久さんを思いだし、本田さんの歌を聴きます。本田さんはいつまでも私の心の中で生きています」と。

矢萩淳さんは8月に、故郷いわきのアリオスでチャリティーコンサートを開く。その日に向けて、体調管理に余念がない。

本田武久さんは生前、福島県の被災地で復興支援コンサートを数多く開いてきた。

その度に、売り上げ金をラジオ福島の通りゃんせ基金等に寄附してきた。

この日、本田武久さんの遺言ですと紹介があり、ヒロさんからラジオ福島に20万円の募金贈呈があった。

ヒロさんは門馬よし彦さんの歌う「願い」と「秋の風の中で」を聴きながら涙を止める事ができなかった。

震災の年の3月に片足を切断、その後、肺や舌に癌が転移しながらも懸命に歌い続け、私達に生きる事の大切さを教えてくれた本田武久さんに、改めて感謝と哀悼の意を捧げます。

本田武久さん、ありがとうございました。

この日のコンサートの模様は、7月8日(月)の夜7時から9時までの2時間の生放送「月曜Monday ( もんだい)夜はこれから」の中で放送する予定。

番組は、インターネットのユーストリームを通じて、世界中に発信する。

福島県外の方は、パソコンやタブレット、スマホでアクセスして下さい。

『月曜Monday 夜はこれから!』(ラジオ福島)
【ustream】 月曜 19:00~20:50
 http://www.ustream.tv/channel/rfc-radio
【facebook】
 https://www.facebook.com/Monday1458
  

第484話  矢萩淳さんからのメール

 

 
矢萩淳さんからのメールです。

☆★☆★
簡単に今の現状をまとめたものです。

・病気のこと

病気になって良かった。今はこの言葉が言えるようになりました。大病と震災を経験して、見えないものが見えるようになりました。命の大切さ、家族の絆、妻と息子への愛、まわりにいる仲間。普段何気なく見ていたものがすごく大切にそしてかけがえのないものに感じています。

一瞬一瞬の今を大事に。この言葉は自分が今一番大切にしていることです。

「The best of times」というミュージカルナンバーがーあるのですが、その歌にあるように今の自分は今を最高に生きる努力は惜しみません。

・病気の現状

今は新薬のベルケイドという薬を使ってがん細胞の数を落とす治療中。副作用の痺れや眠気があります。残念なのことにこの薬は全員に効くわけではないのでだいたい7割の患者さんは効きが弱かったりして違う治療法に切りかえられます。自分は幸いなことに効いている方の3割に入れてもらえている。そのありがたさを何とかして活かして伝えていきたいです。生かされているような気がします。

・これからの夢

最愛の妻と息子と一緒にいられる時間が少しでもながくなるように、皆様に少しでも良い音楽が届けられるように、みんなが幸せであるように、そんなことを考えて毎日を過ごしています。

みんなが幸せになれるような活動をやっていきたい、そのてはじめに自分にできる歌を歌う活動を続けることは自分の夢です。

・8月のアリオスでのリサイタルに向けての意気込み。

最幸なリサイタルにするべく周りの仲間や家族が頑張っています。歌を歌うこと、リサイタルをやれることがすでに自分にとって最高の幸せです。自分の思いやメッセージを伝えつつ、会場で皆さんと幸せをわかちあいたいです。

矢萩淳

第483話  本田武久さんの追悼の集い

 
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7月8日(月曜日)の「月曜Monday ( もんだい)夜はこれから」は、昨年11月にガンで亡くなった、テノール歌手の本田武久さんの追悼の集いを特集します。

6月30日(日曜)、いわき市小名浜のイタリアンレストランdon 3で、テノール歌手・本田武久さんの追悼の集いが行われました。

本田武久さんは2008年12月25日に、ガンの告知を受けました。

翌2009年から震災の年の2011年までの3年間、レストランdon 3でクリスマスコンサートを開いてきました。

会場には、生前本田武久さんの歌に励まされた40人が集まり、ゲストシンガーの寺島夕紗子さん、門馬よし彦さんの追悼の歌に涙していました。

その中に、現在ガンと闘っている音楽教師でテノール歌手の矢萩淳(やはぎあつし)さんがいました。

8日(月曜日)の「月曜Monday ( もんだい)夜はこれから」は、スタジオに矢萩淳さんをお迎えし、本田武久さんの人生を振り返りながら、矢萩淳さんの歌への思いを伺います。

矢萩淳さんから送られてきたプロフィールをご覧下さい。

☆★☆★
矢萩淳 (やはぎあつし)
福島県いわき市小名浜出身。磐城高校卒業。国立音楽大学声楽科卒業。

声楽を田中英明、宮永康生各氏に師事。在学中にオペラや合唱において精力的に活動。マスタークラスでは「甘く優しい声」と称された。

血液のガン「多発性骨髄腫」になり、国立がんセンター中央病院にて1年半の治療で造血幹細胞移植を2回うける。

実家いわき市小名浜で病気療養中の3月11日に被災。

多発性骨髄腫と震災を経験し、「今自分にできることは歌うこと」「自分にしか歌えない歌を届けたい」という思いでリサイタルをおこなっている。

矢萩淳

第482話  歌の力を信じて

 
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私の番組で、トトロの挿入歌「散歩」をお母さんと熱唱した、綾野ちゃん小学校4年生。

震災後、福島市から仙台市に家族で避難した。

避難先の小学校に初めて登校した綾野ちゃんは、ドキドキする気持ちを押さえて言った。

「私の得意な事は、歌を歌う事です。一曲歌います」と大きな声で挨拶し、童謡「たき火」を歌った。

綾野ちゃんの澄んだ歌声が、教室いっぱいに響いた。

綾野ちゃんは福島県童謡歌唱コンクールで、最優秀を受賞した経歴を持つ歌姫だ。

綾野ちゃん歌が終わると一瞬静寂が教室を支配した。

「ありがとうございました」と綾野ちゃんが頭を下げた瞬間、割れるような拍手が教室を包んだ。

「スゲエ!」「上手すぎ!」

その日下校する 綾野ちゃんは「友達になろうよ」と声をかけてくれた同級生に囲まれていた。

自宅前で、綾野ちゃんの帰宅を待っていたお母さんの心配は、取り越し苦労で終わった。

クラスメイトと一緒に笑いながら帰ってきた綾野ちゃんを見て、お母さんは涙が止まらなかった。

第481話  小高区塚原地区

 
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南相馬市小高区塚原地区。東京電力福島第一原子力発電所から15キロの距離。

住宅地は津波で跡形もない。この地区では15人が犠牲となった。

津波に耐えた「奇跡の二本松」が海を睨んで立っている。(残念ながら、一本は枯れている)。

もう一本は何とか残せないものか。

高台に上がると「諏訪神社」がある。

地震で鳥居は崩れたが、ここに避難した多くの住民の命を救った。

「何かあったら明神様に逃げろ」

これは、いわき市薄磯地区の住民から聞いた昔からの言い伝え。

明神様はいわき市薄磯地区の高台にある「薄井神社」のこと。

言い伝えを守り神社に避難した30人の命は救われた。

津波は、薄井神社の鳥居の下の階段まで押し寄せてきた。

「諏訪神社は、 小高区塚原地区の避難場所になっていたから、住民はここさ逃げてきて助かった」と語るのは、神社の真下に住む鎌田良晴さん(60)。

鎌田さんは米作と酪農を営んでいた。

昨年4月16日の小高区の警戒区域解除からほぼ毎日、自宅に戻り、農機具の手入れを行っている。

牛16頭は、政府の薬殺処分に抗議、許可をもらってエサを与え、生かし続けてきた。

「牛は家族と同じ、殺せるわけがねえべ」と鎌田さん。

鎌田さんの牛達は今、大学の研究に使われている。

「仕事はもうできねえな。でも、何かしてねえと、生き甲斐まで無くしちまう。原発事故さえなかったら、もっと早く小高は復興してたのにな」と悔しさをにじませていた。

「原発事故さえなかったら」この1 年間で何度この言葉を聞いただろう。