第21話 鎌田實先生とさだまさしさん

 

8月1日、猛暑の南相馬市鹿島区、絆診療所。(絆診療所については、福島県の広報誌・ゆめだより8月号に特集記事あり)

 

鎌田先生とさだまさしさん

 
その絆診療所で、午後2時から、チェルノブイリ連帯基金理事長で諏訪中央病院名誉院長の鎌田實先生とさだまさしさんのトーク&ライブが行なわれ、近くの仮設住宅から200人を超える住民が詰めかけました。

鎌田實先生は集まった皆さんに、「頑張らなくていいんですよ。元気でいるために、小さなことに感動し、感謝する生活をおくりましょう」と呼びかけました。

さだまさしさんは、二曲を熱唱し、「支援コンサートをいつまでも行う南相馬市から、堂々と有料コンサートが開くことができる南相馬市になることを願っています!それまでは、これからも、ちょくちょく来ます・」と話していました。

鎌田實先生は、震災直後から南相馬市の医療支援を続けていて、「絆診療所」の応援団長を自負しています。

トーク&ライブ終了後、さだまさしさんとお話をする機会を得ました。

さださんには、昨年6月10日(土曜日)に原町第2中学校体育館で行われた支援コンサートでお会いしました。

その支援コンサート終了後、50代の主婦にマイクを向けました。

「明日で震災から3ヶ月ですが、今のお気持ちは?」

主婦は答えました。「私は家を津波で流され、家族も二人失いました。おじいちゃんはまだ見つかっていません。そんな私達に節目なんかありません。

区切りとか節目は、あなたたちマスコミが勝手に
に使っているだけです。あなたは恥ずかしくないのですか」と。

今日、この話をさだまさしさんに伝えました。

さださんは「その主婦の方の話は、放送でしたのですか」と聞きました。

私が「はい」と答えるとさださんは、「震災後、マスコミは事実を伝えることに必死でしたが、物事の真実を正しく伝える事には消極的でした。

津波の被害も原発事故の苦しみも、表面的な情報ばかりで、ここ福島に来ないと真実は分かりません。

私も大和田さんも、現場に足を運ぶから見えるものがあるはずです。

それが事実を超えた真実 ではないでしょうか。

真実を知るには相手を傷つけたり、自分が傷つくことも、 覚悟しなくてはならないのではないでしょうか。その積み重ねが、相手との信頼関係を作っていくと信じています」と。

絆診療所を後にする鎌田實先生とさだまさしさんから、絆診療所の遠藤清次院長に、全国から届いた支援金が手渡されました。

第20話 奇跡のピアノ

 

いわき市平豊間にある、乙姫蒲鉾(おとひめかまぼこ)会長・四家広松さんを偲ぶピアノコンサートが、いわき市の結婚式場の一室をお借りして開かれました。

このピアノコンサートを開いたのは、広松さんの息子で、乙姫蒲鉾現社長の四家広彰さんです。

平成11年9月、(故)四家広松さんは、お孫さんの豊間中入学を記念して一台のグラウンドピアノを学校に寄贈しました。

このグラウンドピアノは豊間中学校の体育館に置かれ、入学式や卒業式で校歌を奏で、生徒達の成長を見つめてきました。

2011年3月11日午前、豊間中学校では卒業式が行われ47人が巣だっていきました。

その3時間後大津波が学校を襲いました。
体育館の時計は、3時28分で止まっています。
幸い生徒には被害はありませんでしたが、豊間中学校がある薄磯地区では104人が亡くなり、未だ7人が行方不明になっています。

昨年5月上旬、福岡県小郡市の自衛隊員40人によって、膝まであった砂と瓦礫が撤去され、ステージの上に横転していたグラウンドピアノが、体育館の中央に丁寧に運ばれました。

豊間中学校の復興を願って。

5月20日、自衛隊の善意を知った豊間中学校の関係者300人が体育館に集まり、ボロボロになったピアノで校歌を歌い、校舎に別れを告げました。

その後ピアノはずっと一人ぼっちでした。

「ピアノを瓦礫にしたくない!」いわき市の調律師・遠藤洋さんがピアノの修理を申し出ました。
遠藤さんは学校、寄贈者、市教育委員会から修理の許可を取り付け、8月1日ピアノを体育館から運び出しました。家族6人で。

運び出されたピアノは強い磯の臭いがしました。内部には砂が入り、弦は錆び付き、鍵盤も無くなっていました。

凡そ1万個にも及ぶ部品の取り換え作業が、半年間続きました。 遠藤さんの夢は、このピアノでもう一度豊間中学校の子供達に校歌を歌ってもらうことでした。

奇跡のピアノの復活を信じて、遠藤さんは懸命に修理を行いました。

そして今年3月11日、震災からちょうど1年、豊間中学校の生徒がこのグラウンドピアノで高らかに校歌を歌いました。

ピアノが本当に復活した瞬間でした。

校歌を伴奏したのは、昨年5月20日ボロボロのピアノで泣きながら校歌を弾いた、磐城高校3年生の小野幸輔くんでした。

幸輔くんの実家も、薄磯で蒲鉾の製造販売業を営んできましたが、津波で全てが流されました。

大切にしていたピアノも。

このグラウンドピアノを豊間中学校に寄贈した四家広松さんは、6年前93歳で他界されました。

ピアノの右側には、四家広松さんの名前と寄贈された年月日が書かれています。

この日、ピアノを修理した遠藤洋さんは挨拶の中で、「私はこのピアノに四家広松さんの名前がなかったら、修理をさせてもらわなかったかもしれません。私達はこの震災で多くの大切な物を失いました。しかし、代わりに家族や、人と人を結ぶ『絆』の大切さを実感することができました。これからも、ピアノを寄贈した時の四家広松さんの思いをずっと残していければと思っています。私の後は、調律師の息子達がこの思いを未来に繋いで行きます」と。

コンサートでは、このグラウンドピアノの復活の物語に感動した沖縄出身のsinger・普天間かおりさんと、地元いわき市のアマチュアミュージシャン・斎藤淳さんが、美しい歌声を披露しました。

ピアノコンサートを企画した四家広彰さんは、「諦めていたピアノに、再び命を与えて下さった遠藤洋さんや関係者の皆さんに、心から感謝致します。親父も喜んでいると思います」と挨拶し、ピアノに一礼しました。

奇跡のピアノは福島の復興・復旧のシンボルの一つとして、これからも私達に元気と勇気を与えてくれると信じています。

第19話 大間原発再着工瀨

 

東日本大震災による東京電力福島第一原発事故の影響で工事が中断していた 、青森県大間町の「大間原発」の工事再開が決まった。

枝野経済産業大臣が、既に工事を着工している原発については、工事再開を認める明言。

函館市長は「福島の原発事故の教訓も生かされず、反省もない」と、政府に対し不信感をあらわにした。

青森県知事も大間町長も、水素爆発をお越し吹き飛んだ建屋の前に立ってもらいたい。

事故が起きたら誰が責任をとるのか。

この国の民主主義は誰も責任を取っていない。

人間が制御出来ない科学技術に、私達の未来を託していいのだろうか。

第18話 自衛隊の思い

 

2011年3月11日午前、いわき市薄磯の豊間中学校では卒業式が行われ、47人が巣立って行った。

その3時間後、大津波が学校を襲った。

時計の針は、3時28分で止まっている。

幸い生徒に被害はなかったが、薄磯地区は100人が亡くなり、10人が行方不明となっている。

5月14日、福岡県小郡駐屯地の陸上自衛隊員40人が 豊間中学校体育館に入った。

全ての瓦礫を撤去する為に。

自衛隊は、膝まであった瓦礫と砂を4日間かけて撤去した。

床を瓦礫の中から見つけたモップと、自分達のペットボトルの水を使って、ピカピカに磨きあげた。

ステージ上には、津波の被害を受け横転したグラウンドピアノがあった。

指揮をとっていた山口勇3等陸佐が言った「このグラウンドピアノを体育館の中央に運ぼう」

ピアノを見た山口勇3等陸佐は、「このピアノは豊間中学校の復興のシンボルになる」と直感したという。

山口勇3等陸佐の指示を受け、自衛隊員によりピアノは丁寧に体育館中央に運ばれた。

豊間中学校の復興を願って。

自衛隊の善意を知った豊間中PTA が動いた。

昨年5月20日、体育館に学校関係者300人が集まり、このピアノで校歌を歌い学校に別れを告げた。

その後ピアノは一人ぼっちになっていた。

「ピアノを瓦礫にしたくない」

いわき市の調律師・遠藤洋さんがピアノの修理をかってでた。

市教育委員会、学校、寄贈者の了解を得て、8月1日、ピアノを体育館から運び出した。

その後、1万個にも及ぶ部品の修理が、半年間続いた。

震災から1年経った3月11日、豊間中学校の生徒がこのピアノで校歌を歌った。

本当にピアノが甦った瞬間だった。

自衛隊の山口勇3等陸佐は、ラジオ福島のホームページで、ピアノの復活を知った。

嬉しくて胸が熱くなった。

そしてこの9月、横浜高島屋で行われた「大東北物産展」の会場で、調律師の遠藤洋さんと自衛隊の山口勇3等陸佐が対面した。

2人は、黙ったまま力強く握手を交わした。

「奇跡のピアノ」は今、復興・復旧のシンボルとして日本中に被災地の喜びや悲しみを伝えている。

ピアノを瓦礫にしなかった2人の男に心から感謝。

第17話 ランドセル

 

今年2月。

石川県金沢市の菊川小学校からランドセルが16個贈られてきました。

預かったのは、郡山市の大工、山田仁一さん41歳。

山田さんは、近くの小学校、保育園、幼稚園に、このランドセルを使ってもらえないかと、申し出ましたが、全て断られました。理由は、新品ではないから。

贈られたランドセルの中には持ち主の小学生からの手紙が入っていました。

「おばあちゃんが買っくれたランドセルです。大切な想いでがたくさん詰まっています。取って置きたかったけれど、困っている人に使ってもらえたら、うれしいです。大事に使って下さい。」

山田さんから私に長い手紙が届きました。

このランドセルに込めた、菊川小学校のこども達の善意を無駄にしたくない と。

山田さんから預かった16個のランドセルを、相馬市松川浦の「みなと保育園」に届けました。

和田園長は、いただいた善意を大切に、こども達に感謝の気持ちを教えていきますと、話してくれた。

福島県はこれからも、全国からの支援を必要としています。

新品はもらうけど、中古はいらない。

そんな思いが、福島県の復興の障害にならなければと願うのみです。

贈られたランドセルを背負うこども達の笑顔は、福島の未来そのものでした。