第86話 最終処分場

 

★細野前原発担当大臣は、「放射性廃棄物の最終処分場は、福島県外に作る」と明言した。

後を受けた長浜環境大臣は、汚染廃棄物を30年以内に福島県外で最終処分する方針について、「特別措置法」に明記する考えを明らかにした。

中間貯蔵施設の場所さえ決まっていない今、進まない除染に苛立ちを覚える県民も多いはず。

宮城県や岩手県の瓦礫受け入れでさえ、候補地となった地元住民の理解が得られない現状を考えると、福島県の汚染廃棄物を受け入れてくれる自治体はあるのだろうか。

第85話 避難者の思い

 

今日、福島県南相馬市から北九州市に避難しているお母さんに会ってきました。

幼い子供2人を連れて、昨年の4月から北九州市八幡にアパートを借りて住んでいます。

ご主人は、南相馬に残って仕事をしています。

全く福島の情報が無く、帰りたいけど、心配で帰れない、逃げた後ろめたさもあると、話してくれています。

原発爆発直後の判断としては、南相馬市を離れるの事は、最善の選択肢の1つだったと思いますが、震災から1年7ヶ月が過ぎた今、今度は南相馬に戻る選択肢も考えて欲しいと伝えました。

福島の安全面を、外に向けて発信する必要性を強く感じました。

第84話 願い

 

北九州市小倉です。

「日専連北九州設立60周年」と「北九州市八幡区保育士研修会」で講演してきました。

福島の現状についてお話ししましたが、皆一様に信じられないという表情でした。

「きょうされん」関係者の方も3人、福岡市からわざわざ来てくださいました。

この方達は、南相馬の支援に入られ、諏訪中央病院名誉医院長の鎌田實先生とも行動を共にされていました。

講演会終了後、立ち話しでしたが、はるばる福岡からの支援活動を伺い、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

近々、郡山にお出でになるとも、話しておられました。

その行動力には、頭が下がる思いです。

福島は今、全国からの支援を受けています。

その事に感謝した北九州市の講演会でした。

「きょうされん」の皆様に聴いて頂きたい曲がありますか。

警戒区域となり立ち入る事が出来ない浪江町請戸出身のシンガーソングライター・門馬よし彦さんの「願い」という曲です。

浪江町請戸は津波の被害が大きく、沢山の住民が亡くなり、今も多くの方が行方不明となっています。

門馬よし彦さんの家も津波で流され、土台(家の基礎)も残っていません。

幸い家族は無事でしたが、知人、友人を沢山亡くしました。

そんな故郷浪江町への思いを歌った「願い」を、是非多くの皆様に聴いて頂きたくお願い申し上げます。

インターネットのYou Tube でいつでもどこでも聴く事が出来ます。

「ラジオ福島願い」で検索して下さい。

門馬さんの「願い」をバックに私が震災直後から撮り続けた、福島の写真もご覧頂けます。

是非、門馬よし彦さんの「願い」を一度お聴き下さい。

You Tube 「願い」
(別ウィンドウで開きます)

第83話 玉野に寄贈ピアノの思い

 

★相馬市立玉野小学校に、埼玉県の60代のご夫婦から寄贈されたピアノの「復活」の物語を、ご紹介します。

山間の相馬市玉野地区にある玉野小学校は、全校生徒が14人。

共有している体育館をはさんで、渡り廊下でつながっている玉野中学校も全校生徒14人。

その体育館に寄贈されたピアノを使い、相馬市出身のフルート奏者、芳賀文恵さんが音楽仲間3人と音楽会を開催しました。

芳賀さんは相馬市の沿岸部・尾浜出身。家族は無事でしたが、家は津波で流されて跡形もありません。

友人もたくさん亡くなりました。

虚脱感から1年間は何もできなかったそうです。

今は、自分のできること、音楽の力を信じて、被災地を回っています。

音楽会終了後、寄贈されたピアノで、玉野小学校と玉野中学校の校歌を子供達が熱唱しました。

ピアノが無かった体育館に校歌が流れたのは初めてでした。

娘が使っていて、今は使わなくなった大切なピアノを被災地に届けたい!

朝日新聞に私が書いた、豊間中のピアノの記事(今年3月11日掲載)を読んだ埼玉県の奈良さんご夫妻から、被災地にピアノを寄贈したいという手紙をいただいたのが、全てのきっかけでした。
このコンサートの模様は後日月曜日の番組で放送して、大きな反響を頂きました。

自然豊かな相馬市玉野地区の子供達の、元気な声が全国に発信されました。

子供たちの未来が福島県の希望です。

第82話 橋本弘子さんからのメール

 

★私の友人で「骨形成不全症」という難病と闘う、車イスのお母さん、橋本弘子さんのメールを転送します。

弘子さんは、咳をしても骨折するほどの重病ですが、命懸けで出産し子育てを行いました。
その一人娘の明寿香ちゃんはこの春、本宮高校を卒業し、東京で頑張っています。

明寿香が在学していた本宮第一中学校の安斎教頭。
明寿香の事、私の母親としてのPTA活動、部活、スポ少での姿を見ていて、私が病院から卒業式に行った事も知り、高校生になった明寿香の様子も時々聞いてくださいました。

私が明寿香を東京に行かせていいだろうかと相談したのも安斎教頭です。
安斎教頭が初めて校長になった中学校は赴任する校舎がありませんでした。

震災、津波、原発事故からの避難から本宮市教育委員会に机をおいた校長は浪江中学校の安斎校長です。

毎日、本宮市役所に登校する安斎校長に私は、原発事故への悔しさに声もかけられずにいました。

そんな学校でも、浪江中学校の生徒達は感謝の気持ちを持って学習し、生活していること。

生徒達の正しい心が安斎校長の努力に報いてくれたとさえ思います。

今度、安斎校長が本宮市役所に登校したら、私は、笑顔で挨拶ができる気がします。

浪江に戻れる日が早く来ますようにと、心から願います。
橋本弘子