第106話 佐藤敦之選手

 

★大阪マラソンに出場した佐藤敦之選手の走りを見た関西大学の藤井君からの感想メールを転送します。

大和田 新 様

こんにちは。今日は大阪マラソンでした。
私は混雑する市内中心部をはずれ、34km付近で観戦していました。

10時45分過ぎ、前の2人も後ろも、招待選手は殆ど歩道から離れた中央部を黙々と走る中、佐藤敦之選手は歩道に近い所を、沿道の歓声に時折笑みを返しながら、スマートに走り去って行きました。

佐藤選手の走りを生で見たのは初めてですが、走りはもちろん、沿道にも気を使う姿勢に感動しました。

藤澤 和久

第105話 大阪マラソン

 

★今日行われた大阪マラソンで、佐藤敦之選手が2時間16分台で完走、総合3位。日本人2位の好成績をおさめました。

レース後、佐藤敦之選手に電話でお話を伺いました。

佐藤敦之選手は、「久し振りに、マラソンの舞台に帰ってきました。満足のいく結果です。引き続き福島から世界を目指します」と話してくれました。

佐藤選手は今年5月に、中国電力を休職して故郷会津に戻り、被災地の子供たちにスポーツ支援を行いながら、4年後のリオを目指しています。

佐藤敦之選手は来週の日曜日、福島市の全盲のランナー星純平さんの伴走の為、南相馬市で開催される「野馬追いの里マラソン」のハーフ(20キロ)に出場します。

佐藤選手は「星純平さんのベスト記録達成の為に全力を尽くします」と抱負を語ってくれました。

全盲のランナー星純平さんの力走を期待するとともに、佐藤敦之選手の福島への支援に心から感謝 致します 。

佐藤敦之選手は、福島県の宝です。

第104話 大人の責任

 

いわき市小名浜大原のイタリアンレストランdon 3で豊間中のピアノとソプラノ歌手の寺島夕紗子さんのコンサートが行われ、ピアノに縁のある50人が招待されました。
 
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豊間中のピアノは、津波で傷つきましたが、調律師・遠藤洋さんが一万個にも及ぶ部品の取り換え作業を行い、見事に甦りました。

奇跡のピアノの話を聞いたソプラノ歌手・寺島夕紗子さんが「ぜひそのピアノで歌いたい」と申し出、この日のコンサートの実現となりました。

寺島夕紗子さんのお父様が、反戦歌「さとうきび畑」を作詞・作曲しました。

沖縄本土復帰から40年の今年の4月。
寺島さんは、米軍が最初に上陸した沖縄県読谷村(よみたんそん)に「さとうきび畑」の歌碑を建立しました。

平和の願いを込めて♪

10分にも及ぶ大作「さとう きび畑」に多くの人が涙しました。

寺島さんは言います「67年前、沖縄は人の手によって焦土と化しました。戦争は人間の心が起こすもの、だから止める事が出来るはず。戦争の不条理を発信する事が、私達の責任だと信じています」

コンサートが始まる前、この春、豊間中を卒業した女子高生5人が、7ヶ月振りに豊間中の校歌を歌いました。

その爽やかな歌声は正に福島の未来そのものでした。

前豊間中生徒会長でいわき光洋高校1年の吉田碧葉(あおば)さんは将来の夢について、「私は看護師になりたい。何故ならば震災直後、避難所で傷ついた人に何もしてあげられなかった。いざという時に人の役に立てる仕事につきたいと思ったているから」と、笑顔で話してくれました。
& amp; amp; lt; br>原発廃炉まで40年、気の遠くなるような歳月の先にある福島県の復興・復旧を担うのは若者達です。

彼らが自らの夢を実現できる福島県であって欲しいと願うと同時に、私達大人の責任が今問われていると思います。

今年3月1日、富岡高校の卒業式で生徒会長の若林みのりさんが答辞で言いました「人間がコントロールできない科学技術の発達によって、私達は大切な故郷や母校を失ってしまった。しかし、天を恨まず、自らの運命を自らの手で切り開いて行く事を誓います」と。

私達大人が、子供達の未来の為に何が出きるかを考えて行動して行きましょう。

高校生に見棄てられたら、福島県は終わりです。

国や県のリーダーそして政治家は分かっているのだろうか!

福島 県の子供達に栄光あれ!

第103話 昭和のオヤジ

 

コピーライターの糸井重里さんが言いました。

「相馬の立谷市長は、昭和のオヤジです。俺についてこい、責任は全て俺が持つ。そんな、昭和のオヤジが被災地には、1番必要なんです」と。

第102話 35年目のプロポーズ

 

いわき市の橋本美和子さんの「35年目のプロポーズ」です。

読んで泣いて下さい。

橋本美和子さんは、宮城県古川市出身です。縁あってお見合いでご主人と結ばれました。

いわき市に嫁いできた時には、言葉がキツくてびっくりしましたが、温かい人ばかりで、今は感謝の気持ちで一杯ですと、話してくれました。

夫婦共通の話題は、スポーツカー。結婚18年目にその夢が叶い、スカイラインGTRを購入しました。

しかし、その大切な車も自宅と一緒に津波で流されました。

「35年目のプロポーズ」

★あの日、私の姿を見つけた時、一瞬、膝が折れて力が抜けてしまったあなた。

「お父さん、ここよ!」笑顔で両手を振った私。嬉しかった。ただ嬉しかった。

少しずつ近づいてくる夫の目は、赤くうるんで、とても疲れていた。

大津波襲来直後に自宅に着き、信じがたい光景を横目に、「生きていてくれ!」と心で叫びながら、あてもなく探し歩いたという。

途方にくれていた夫に、私と母の無事を教えてくれた人を振り切るように、かけ上がり、ようやく私達のところにたどり着いたと言った。

震災から1ヶ月。妹の計らいで高齢者向けのアパートに落ち着いた日の夜。突然夫は、嗚咽を漏らしながら泣き出した。初めて見る涙だっ た。

震災以来、どんなに辛い時も、理不尽な事にも声を荒げたり、愚痴をこぼすこともなかった夫が、身一つの自分達の全てを無条件で受け入れてくれた避難先の人達の優しさや思いやりのが本当に有り難く、嬉しいと肩を震わせて泣いた。

黙って、そっと触れた指先から手のひらを伝い、そのあふれ出る思いが、私の体に流れ込んでくるような感動が走った。

その日から、時折思い返しては、夫の横顔を見つめてしまう私。

微笑みながら、「何?」と夫。

うなずくだけの私。

あれから1年が過ぎ、今は二人だけのささやかな毎日がある。

ある日、夫が私に、指環を買ってやりたいと、言ってきた。

確かにサイズが合わなくなり、最近は外していたが、こんな大変な時に 指環どころではない、と思ったが、あの時の夫の涙を思うと、何とも健気で、ここは甘えてみることにした。

私の指に指環をはめながら夫は、「これからも宜しく」と照れくさそうに言った。

「ねえ、いつか、あっちの世界に行っても、私と結婚して下さいね」。

思わず、無茶振りをしてしまった私。

夫がやっと探した言葉は、「ああ、勿論だよ。必ず1番先に見つけるよ。だから、ゆっくり来てね。待ってるよ」。

35年目のプロポーズ、今度は、私から。

橋本 美和子