富岡町

第680話 旨い豚丼

 
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双葉郡富岡町。東京電力福島第2原子力発電所が立地している。

国道6号沿いに創業明治元年の鰻の「押田(おしだ)」があった。いわきや双葉郡では知らない人はいない名店だ。

震災後、押田は東京で再開した。そこには、店を継ぐべき長男の姿はなかった。

東京の店が軌道に乗ってきた今年、長男は富岡町の隣の楢葉町に豚丼専門の「豚壱」をオープンさせた。(道の駅楢葉の真下)。

客は圧倒的に、原発関係で働く人が多い。それは東電社員であったり作業員であったり様々だ。

私のお薦めは「おろし豚丼」。秘伝のタレは鰻屋そのもの。毎日食べても飽きない味だ。

楢葉にお出掛けの際はぜひ、「豚壱の豚丼」どうぞ。

第678話 富岡港~殉職の碑』

 
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富岡港近くに、殉職警察官が乗っていたパトカーがある。

原型を留めていないその姿に、声も出ない。

この震災で福島県内では5人の警察官が殉職した。うち一人がまだ見つかっていない。

いずれも、住民の避難誘導中に津波に巻き込まれたとみられている。

このパトカーには2人の警察官が乗っていた。1人は30キロ沖の大平洋上で発見された。

26歳の若き警察官がまだ、見つかっていない。

彼は、剣道の達人だった。壊れたパトカーには、母校の高校剣道部から贈られた竹刀が手向けられていた。

第420話  ⑥佐藤紫華子さん

 
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原発事故の為、富岡町からいわき市四倉に移り住んでいる、佐藤紫華子(しげこ)さん85歳を訪ねた。

佐藤さんが出版した反原発詩集が大きな話題となっている。女優の吉永小百合さんも好んでその詩を朗読している。

富岡町の自宅に帰る度に、荒れて朽ち果てていく現状を目の当たりにして佐藤さんは戻らない決心をした。

いわき市四倉に家を建て、90歳のご主人と暮らしている。

「あれから2年2ヶ月で、警戒区域にある家がこんなにも荒れて住めなくなるということを国も基礎自治体も全く分かっていない。除染したら帰れる、なんてそんな生易しいものじゃない」と佐藤さんは玄葉さんに、不満をぶつけた。

「私も5月20日に、富岡町の住宅の現状を見てきましたが、それは酷いものでした。新聞やテレビ、ラジオで伝わらない悪臭に驚きました。どこの住宅 も、ネズミの糞や死骸に立ち入りを阻まれました。これでは簡単には帰れないと思いました。中間貯蔵施設の場所も決まっていませんし。問題は山積していますが、前を向いて頑張って行きましょう」と玄葉さんは語った。

佐藤さんは納得の表情は見せなかった。そして言った。

「政治家はもっと現場に足を運びなさい」。

玄葉さんは大きく頷いた。

「原発難民」佐藤紫華子

仕事がありますよ
お金を澤山あげますよ

甘い言葉にのせられて
自分の墓穴を掘るために
夢中になって働いてきて
原発景気をつくった
あの頃・・・・・

人間が年を取ると同じように、機械も年を取るということを、考えもしなかった、技術者たち!
ましてや
大地震、大津波に
襲 われるとは・・・・・

地震国であり
火山国であるという
基本的なことを
忘れてしまった国の末路か・・・・・

私たちは
どこまで逃げれば
いいのだろうか
追いかけてくる放射能
行く手を阻む線量

見えない恐怖!
匂わないもどかしさ!
聞こえない焦立たしさ!

私たちは
安住の地を求めて
どこまで
いつまで
さすらうのだろうか

第343話 原発難民

 

 
原発事故で故郷・富岡町を奪われた佐藤紫華子(しげこ)さん85歳にインタビューした。

紫華子さんは90歳のご主人と一緒に、避難先を転々とし、今はいわき市四倉町に落ちついている。

原発事故直後から紫華子さんは、その思いを詩に託し、震災の年に「原発難民」と「原発難民のそれから」という2冊の詩集を自費出版した。

その内容は多くの被災者の共感を呼び、マスコミの震災報道よりも本当の被災地の姿を伝えていると評価も高い。

この詩集に感動した女優の吉永小百合さんが、自らのステージで詩を朗読している。

また、この詩集の中から、佐藤紫華 子さん自身が詩を朗読したCD 「ふるさと」が発売され、話題となっている。

なお、このCD の収益は全て富岡町に寄付される。

佐藤紫華子さんの作品「ふるさと」を紹介する。

★ 『ふるさと』

呼んでも
叫んでも
届かない

泣いても
もがいても
戻れない

ふるさとは
遠く 遠のいて
余りにも遠い
近いけど 遠いふるさと

あのふるさとは
美しい海辺

心の底の
涙の湖に ある

第215話 鎮魂のメッセージ

 

2人の警察官が殉職した富岡町の漁港前。
 
鎮魂のメッセージ
 
鎮魂のメッセージ
 

1人は震災から1ヶ月後、30キロ沖合いで発見された。もう1人は未だ見つかっていない。

行方不明の若き警察官は、剣道を心から愛していた。

墓標となったパトカーには、出身高校剣道部から贈られた竹刀と、県警先輩からのメッセージが手向けられていた。

津波で破戒されたパトカーの後方に見える、子安橋を乗り越えた津波の高さは、20メートルに達していた。