相馬市
いよいよ、相馬野馬追が27日(土曜)28日(日曜)29日(月曜)の3日間開催される。
一千有余年の昔、相馬市の祖といわれている平将門が下総国(今の千葉県北西部)に野馬を放ち、敵兵に見立てて軍事訓練を行ったのが始まりと伝えられ、現在では、毎年7月末の土曜、日曜、月曜の3日間、甲冑に身を固めた500余騎の騎馬武者が腰に太刀、背に旗指物をつけて疾走する豪華絢爛で勇壮な戦国絵巻を繰り広げる。
1日目は、「出陣式」。2日目は、「甲冑競馬」、「神旗争奪戦」。
3日目は、「野馬懸」がメインとなる。
最終日の「野馬懸(のまかけ)」は、野馬追古来の姿を現在に残す 行事で、放たれた野馬を小高神社境内に追い込み、白装束の御小人が素手で神馬を捕らえ神前に奉納する神事。
「野馬懸」は、昨年4月16日に警戒区域が解除された、南相馬市小高区の小高神社で行われる。
震災の年には行われなかった。
小高区は原発事故の影響で、除染も上下水道等のライフラインの復旧も進まず、住民は住んでいない。
だからこそ、小高神社で「野馬懸」が行われる事の意味は大きい。
地震、津波、原発事故の被害が最も大きかった相双地区の心を一つに、野馬追が復興の狼煙をあげる。
2013年7月26日 |
相馬市
立谷市長のメルマガ「また会う日まで」に感動しました。
HIKOBAEの監督で先日急逝された塩屋俊氏への立谷市長の思いが綴られています。
お時間がありましたら、ぜひ、お読み下さい。
http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/melma/20130617_melma.html
2013年6月24日 |
相馬市
友人の全盲のマラソンランナー、福島市の星純平さんからのメールを転送します。星純平さんは、フルマラソンを三時間を切る、「サブスリー」を目指して努力しています。
サブスリーは、市民ランナーの5%しか達成できない、名誉ある記録です。純平さんの鍼灸院の治療室には師匠であるオリンピックランナー・佐藤敦之選手の言葉が飾られています。そこには、「挑戦し続ける者に失敗はない」と書かれています。
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視覚障がい者ランナーの星純平です。
日頃は、ラジオ福島をお聞きの多くの皆様から応援をいただきまして、誠にありがとうございます。
視覚障害者となり、閉鎖的な日々を送る中、多くの方々のご支援を頂く事で、マラソンと言う世界を体 感しています。
ただの一市民視覚障害者ランナーと思って走ってきましたが、ラジオ福島の大和田さんとの出会いで、ラジオ番組にて熱意を持って取り上げて頂きました。
その影響によって、多くの方々から応援をしてもらう事になりまして、心から感謝しています。
お陰様で、マラソンを始めてからは、光を失い、気持ちを閉ざす日常から少し解放されたような喜びを実感する今日この頃です。
自分自身の運命と戦う一つの形として今、マラソンと向き合ってゆきたいと思っています。
今後とも、温かいご声を宜しくお願い致します。
6月16日(日)に、第1回 東北お遍路杯 福島・相馬市民マラソン(10km)に参加してきました。
日々お世話になっている斎藤真裕ト レーナーの心意気、「復興応援として仮設住宅を周回するコースのマラソン大会ならば、福島の市民ランナーが
走らないで誰が走るって言うんだ。」と、真裕トレーナーが伴走者となって参加する事を決めました。
大会当日の相馬市に向かう道中、「浪江焼きそば」の屋台トラックを抜き去り「レース後は浪江焼きそばで決まりだなぁ純平」と、真裕トレーナー。
後はこの降り続いている霧雨が止む事を祈るばかりです。見るからにランナーを乗せた車にあわず「おいおい何人参加するんだよ。」と突っ込みを入れながら建物もまばらな田舎道の中を大会会場へと進みました。
会場についてみると、自衛隊音楽隊が力強い演奏で雰囲気を盛り上げてくれていました。
参加人数は600人を超 えており、この大会の趣旨に賛同したランナーの多さに驚きました。その熱気によって雨雲を押しやりスタートを迎える事ができました。
スタートしてから間もなく最初の仮設住宅の前を通過。そこに住まわざる得ない状況の人々が沿道にあつまってくれていて「頑張れよ!!」と笑顔で応援をくれます。
「ありがとうございます」と僕は返事を返しながら「復興応援として走っているはずなのに応対が逆転してないか?」などとほくそ笑みながら走り続けました。
更に走ると大きな仮設住宅があり、その仮設住宅を突っ切るようにコースは伸びています。その200mほど続く沿道には仮設住宅大応援団の皆さんが待っていてくれました。
聞こえてくる温かい応援の声に励まされながら、それら の声が高齢者と思われる声が多い事に気がついた時、「家の中から出てこない孤独と向き合っている人もいるのだろうか?」と考えずにはいられませんでした。
「復興としてのマラソンの意味」を問う人がいますが、その意味を語る事ができるのは関係者とランナーだけだと思います。
ゴールを迎えて真裕トレーナーに感謝を伝えました。「純平、俺も楽しかった。ありがとう。」とトレーナー。
トレーナーに面倒を見てもらってから3年を間もなく迎えます。今回、共に走った10kmですが僕には3年と言う距離を走らせて頂いてきた事を考え深く感謝した大会となりました。
そして、仮設住宅とそこに住まわざる得ない人々を目の当たりにして、震災はまだ終わってはいない事を感じました 。
僕を真裕トレーナーとトレーナーの妻 三幸さんが支えてくれているように、震災被害者への心温かいご支援が続く事を祈ります。
本大会も、伴走をして下さいました斎藤真裕トレーナーをはじめ、多くの方々のご支援により、走らせていただきました事、心より感謝申し上げます。
現在、日々のトレーニング伴走者を求めております。ご協力いただけます方がおられましたらお力添え頂けますようにお願い申し上げます。
引き続きのご支援ご声援を、よろしくお願いいたします。
星 純平
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全盲の星純平さんが心の目で見た心証風景が、音と共に浮かんできて、涙が溢れました。
2013年6月18日 |
相馬市, 福島市
俳優で映画監督の塩屋俊(とし)さんが5日、亡くなりました。56歳でした。
塩屋俊さんは、東日本大震災の時に相馬市の医療現場で奮闘する医療スタッフらを描いた演劇「HIKOBAE」をニューヨークで上演させ話題となりました。
塩屋さんは5日、HI K O BAE の公演で訪れた仙台市の会場の楽屋で倒れ病院に運ばれました。
6月2日(日曜)には、福島市でHI K O BAE を上演したばかりでした。
私は1週間前に、塩屋俊監督と電話で話しました。
その時塩屋さんは「この震災を100年後まで、きちんと残す為に、世界中で上演します」と話してくれました。
ご冥福をお祈り致します。
2013年6月7日 |
その他, 相馬市
1ヶ月前の4月21日(日)に、相馬市にある県立相馬東高校で講演してきました。満開の桃の花に、季節はずれの雪が積もる寒い日でした。
震災のど真ん中にある相馬東高校で、私が講演してもいいのか、そんな資格があるのか、当日まで悩みました。
家を流され、家族を失い、原発事故により不自由な生活を強いられている生徒もたくさんいます。
でも、そんな悩みを解決してくれたのが、講演会終了後に送られてきた、生徒 達からの感想文でした。感想文は、2回に分けて送られてきました。1回目が200枚、2回目が100枚の合わせて300枚。コピーではなく、全て直筆です。学年や名前も殆どが記入されています。私の宝物です。
昨日届いた100枚から、いくつかを抜粋してご覧頂きます。
高校生達の未来を見つめる純粋な気持ちに感動しました。
①沿岸部の磯部に住んでいた友人が心配でした。3日後に無事が確認できて、ホットしました。でも、原発事故で遠くに行ってしまい、震災後1度もあっていません。寂しくて半年は泣いていました。今は少しは元気になりましたけど、やっぱり、会いたいです。友達を返して下さい。私は、福島県が、相馬が、海が大好きです。
②私の家は磯部にありました。全部津波で流 されました。でも、故郷を思う気持ちは流されていません。大和田さんの話しを聞いて、「東日本津波原発大震災」を子供や孫に伝えていこうと思いました。私の将来の夢は、医療関係の仕事に就く事です。
③豊間中学校の被災したピアノが復活した話に感動しました。僕の夢は、消防士になって多くの人の命を助けることです。人から信頼される人間になります。
④講演を聴いて涙があふれました。震災後の混乱を思い出しました。夢を持つことの大切さを教えてもらいました。未来に向けて歩んでいきます。
⑤私の住んでいる相馬は町の中はどんどん復興していますが、海沿いはまだまだです。どこかに原子力発電所の事故の問題があります。それは、私達の孫の代までつづきます。その問題を 、私達は今の大人に任せないで、一緒に考えていかなくてはダメだと思っています。地域の人達が協力して乗り越えて行くことが大切だと思っています。私の将来の夢は、ウェディングプランナーになることです。花嫁さんに最高の笑顔をプレゼントしたいからです。
⑥正直、震災の話しは聴きたくありませんでした。私の家族は無事でしたが、親戚は被害にあいました。弟は早く家に帰りたいと言いますが、帰るうちはありません。
⑦私の家までは、津波の被害はありませんでした。電気も水道もガスも止まりませんでした。だから、震災のことを深く考えていませんでした。講演を聴いて、沢山の人が原発事故のせいで、家に帰れなかったり、家族を捜せなかった事を知りました。どんどん福島のこと は忘れられています。この現実を伝えなければとおもいました。私は、多くの人を笑顔にできる仕事に就きたいと思っています。講演ありがとうございました。
⑧僕の夢は警察官になることです。理由は簡単です。震災で困っている人達の力になりたいからです。人を助けたいんです。大和田さんの話しを聞いて、原発事故で家族を捜せなかった人がいた事を知りました。 この大震災を語り継ぐ事を約束します。
⑨講演を聞いて、改めて地震や津波を忘れないようにしようと思いました。生きたくても生きられなかった人の分も生きようと思いました。そして、歯科衛生士になるという自分の夢を叶えます。講演を聞いて、夢を持つことの大切さ、夢の実現に向けて努力する事の必要性を学びました。
⑩僕の夢は、看護師になることです。震災後、母から看護師の必要性を聞き、この道を選びました。講演を聴いて、その気持ちが強くなりました。目標を持ち、諦めずに努力していきます。高校生活の3年間を大事にします。
⑪将来の夢は、保育士になることです。講演を聴いて夢の実現に向けて頑張っていこうと思いました。震災の経験を無駄にせず、子ども達の命と 笑顔を守りながら、一緒に成長していきます。
⑫講演ありがとうございました。これからも被災地や被災者の真実をきちんと伝えて下さい。私達若者の意見も取り上げて下さい。私の将来の夢は、栄養士になることです。
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どこまでも前向きな高校生のメッセージに、私たち大人がどう答えていくか、生き方が問われていますね。
頑張りましょう!
2013年5月21日 |
その他, 相馬市
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