南相馬市

第478話  南相馬市役所

 
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南相馬市に来ています。

市役所玄関前には、今年の「相馬野馬追い」の勇壮なポスターが貼られています。

双相地方の伝統の夏祭りが、今年も故郷復活の狼煙を上げます。

第463話  堀潤さんと取材⑤

 
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南相馬市小高区の小高市民病院前院長・遠藤清次先生を南相馬市鹿島区の仮設住宅の一角にある「絆診療所」に訪ねた。

遠藤先生は現代の赤ひげだ。

廃院が決まっていた小高市民病院を救ってくれたのは小高の住民だった。

昨年5月1日、絆診療所はオープンした。

「仮設住宅から孤独死を出さない」が遠藤先生のポリシーだった。

あれから1年。遠藤院長他7人のスタッフは、仮設住宅で孤独死を出さない為に、そして地域の為に懸命に頑張ってきた。

遠藤先生はこのほど、第一回福島県民栄誉賞を受賞した。

遠藤先生は言う。

「仮設住宅の皆さんは疲れています。長引く避難生活から、肥満や高血圧、糖尿病など持病が進み、認知症も悪化 して、将来への不安から生き甲斐を無くす人も増えています」と。

深刻な状況に堀潤さんも言葉がない。

管理栄養士の鶴島綾子さんが、特大のお握りを用意して待っていてくれた。

今野畜産のメンチカツしか食べていなかった私達には、最高のご馳走だった。

焼おにぎり、美味かった!

堀潤さんは、焼おにぎりの他に、おこわのおむすびもを2個食べた。

身も心も体も満足して、ラジオ福島のスタジオに向かった。

この日の「月曜Monday ( もんだい)夜はこれから」は、ユーストリームで最高の視聴数を記録した。

番組が終わり、最終の新幹線で帰る堀潤さんと「餃子会館」で餃子とラーメンを食べて別れた。

再会を約束して。

第462話  堀潤さんと④

 
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堀潤さんと取材④

浪江町を後にして、昨年4月16日に警戒区域が解除された南相馬市小高区に入った。

警戒区域解除から1年以上経つ小高区は、ライフラインの復旧が進まず、住民は未だ住むことは出来ない。

この日JR 小高駅前では近くの双葉屋旅館の皆さんが総出で、ヒマワリを植える等花壇の整備を行っていた。

「どうして、ヒマワリを植えているのですか」堀潤さんが聞いた。

双葉屋旅館の奥さんが答えた。

「まだ、誰も住めない小高だけど、荒れたままにしておけないでしょう。駅前は町の顔だから、綺麗にしておきたいのよ。若い人達はもう戻って来ないけど、私達にはこの町を守ったていく責任があるのよ」と。

駅前通りを西に歩くと、金物屋さんが店の片付けをしていた。

「店に入って、ネズミの小便と糞の臭いを嗅いで行け」

店主に促され、堀潤さんと一緒に店に入った。

ネズミの足跡に覆い尽くされた店内は、小便のすえた臭いと糞の悪臭に溢れていた。

店主が言っ た。

「商品は全て売り物にならない。生き甲斐まで、無くなっちまう」。

店を出て歩きながら堀潤さんは言った。

「テレビや新聞・ラジオでは伝わらない被災地の臭いを体験出来た事は、私にとって大変な収穫です」と。

この小高区に、堀潤さんに会ってもらいたい人がいた。

「菓詩工房わたなべ」のオーナー・渡辺幸史さんだ。

店の前には「必ず小高で復活する」というメッセージが掲げられている。

渡辺さんは冷凍庫を開けて腐ったシュークリームの材料を見せてくれた。

鼻をつく複雑な臭気が漂う。

「この1年は行政や東電との闘いだった。腐った材料が俺を励ましてくれた。でも、心が折れそうになった事もある。そんな時、家族が俺を支えてくれた。大学生の息子が菓子職人を継ぐと言って大学を辞めた。ビックリしたけど、嬉しかた。今は菓子の専門学校に通っている。俺ら大人が立ち止まってたら、子供達に笑われちまう。頑張るしかないべ」と。

堀潤さんはただ頷いて渡辺さんの話を聞いていた。

渡辺さんは堀潤さんに再開する菓子 店のデッサンを見せた。

お城の様な外観で、店内には2階から1階まで滑り台が設置されている。

「どうして、滑り台があるんですか」、堀潤さんがたずねた。

「南相馬市の子供達に夢と希望を持ってもらいたいから。菓子屋はただ菓子を売るだけじゃダメ。ここにいて良かったって、子供達に思ってもらいたいからね」と笑顔で答えてくれた。

店の再開は来年春の予定。

小高に戻る布石として、南相馬市原町区にオープンする。

「必ず、ケーキとシュークリームを買いに来ます」。

堀潤さんはそう言って渡辺幸史さんと、かたい握手をかわした。

第402話  内部被曝通信 福島・浜通りから~二つの被曝データを統一的にみる難しさ

 

 
大和田です。東大医科研からの情報です。

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内部被曝通信 福島・浜通りから~二つの被曝データを統一的にみる難しさ

この原稿は朝日新聞の医療サイト「アピタル」より転載です。

南相馬市立総合病院
非常勤内科医 坪倉 正治

2013年5月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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南相馬市では外部被曝と内部被曝の線量を付き合わせて調べようという試みが始まっています。ホールボディーカウンター(WBC)による内部被曝のデータと、ガラスバッジによって計測された外部被曝のデータを結合し、トータルの被曝量を評価しようという試みです。

ご存知のように被曝には、外部被曝と内部被曝があり、その両方を計算しなければ被曝全体のリスクの評価をすることが出来ません。「今更なの?」もしくは、「まだやっていなかったの?」という印象を持たれる方も多いかもしれません。

このブログでも紹介させていただきましたが( http://apital.asahi.com/article/fukushima/2012122800011.html )、実施主体が県、基礎自治体、私立病院、個人単位とバラバラです。さらに、個人情報保護の問題が立ちふさがり、あまり大きく進んでいません。

検査を受けても各個人にはガラスバッジの結果およびホールボディーカウンターの結果が、別々に知らされます。各個人がその値を足し合わせ、自分が年間にどの程度、被曝しているかは知ることはできます。以前の結果から自分の値の推移を知ることができます。それぞれの集計結果は別々ですが公表され、大まかな傾向を知ることもできます。

しかし、外部被曝が高い人の内部被曝はどうなのか、その逆は?といった内容は、少なくとも市や市立病院が把握している状況ではありません。トータルの被曝量に基づいた対応ができているかというと、その ような状況でもないのです。

今年の始めごろから、南相馬市ではその突き合わせ作業が進んでいます。いくつかの自治体しか、現状を見聞きしておりませんが、付き合わせるにしても多くの問題が立ちふさがっています。

ガラスバッジ結果の一覧と内部被曝検査結果の一覧を、名前やIDの順番で並べて、「ガチャン」とくっつける(だけの?)簡単な作業のはずですが、うまくいきません。当初、純粋にその方法で計算が可能だったのは全体の80%程度でした。逆に言えば、4000件の検査があれば800件ぐらいのデータがうまく結合できなかったのです。

理由は、色々あります。
自治体によっても理由は大きく異なります。
例えば市の中でも基礎となるデータベースが違っていることがありました。 とある自治体ではガラスバッジを学校単位で配布しました。利便性のためです。そのとき使われた基礎データは、いわゆる学校の名簿でした。

するとそれは、自治体が使っているIDとは異なります。住基のIDとも異なります。避難の関係で市外からいらっしゃる方もいます。住民票は別の市町村においていらっしゃる方も少なくないのです。

ある年に中学3年生と登録されていても、次の年には高校生になっています。親の名前でガラスバッジを借りた方もいます。乳幼児の場合は特にそうです。細かいことですが、名前の漢字に旧字体が入っていると、コンピューターがはじき出すことがあります。記入漏れでデータが無いとかも問題になります。

こんなレベルの話は、実際にサービスとして行って いる企業から見れば、何とでも対応できる話だろうと思うのですが、特に震災のあった年の検査結果などは困難を極めました。そもそも、こうしたことをする体制が無かったのだろうと認識しています。

少ない人員の中、エラーが出ても繰り返し修正しながら進んでいます。あまりにも膨大な作業量にスタッフが閉口することも多いようですが、頑張ってくれています。ほとんどの突き合わせ作業は手作業になっているのですが、おかげで完了が見えてきました。

これはxxxの仕事だ。そんな声がすぐ聞こえてくるような話です。巷ではマイナンバー制について法制化や議論が進んでいます。メリットとデメリットあり、このような外部被曝と内部被曝のデータを突き合わせることも、やれば風評被害や差別 につながる、モルモットだ、やらなければ怠慢、隠している、見せたくないだけ、となってしまいます。

愚痴を言っても仕方ないので、淡々と進めて行けるようお手伝いしたいと思っています。

写真:先日のベラルーシでも、データベースの件は議論になりました。事故直後の情報をいかにまとめることができるか、が重要だということを担当の方からお伺いしました。

http://apital.asahi.com/article/fukushima/2013051300008.html

第394話  相馬高校に東大現役合格をもたらした日本の絆 復興は教育から、福島県にぜひ新しい医大を!

 

 
相馬高校に東大現役合格をもたらした日本の絆 復興は教育から、福島県にぜひ新しい医大を!

この記事はグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。

福島県立新地高校教諭(元福島県立相馬高校教諭)
高村 泰広

2013年5月15日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行

今春、福島県立相馬高等学校を卒業した稲村建(たける)君が、現役で東京大学に合格した。12年ぶりの快挙だ。相馬高校教員はもとより、相双地区の教育関係者、そして彼に関わった全ての人達が喜んでいる。

なぜ、稲村君は東大に合格したのか。一言で表現すれば、東日本大震災がきっかけに、外部と交流が進んだからだ。

例えば、震災後、相馬高校には、代々木ゼミナールの藤井健志氏(現代文講師)、安藤勝美氏(英語講師)などの一流の予備校講師が訪れ、受験指導を行うようになった。今年度で三年目に入る。震災後、短期的に被災地を訪れる教育関係者はいたが、我々が求めていたのは、継続的な支援だった。

また、松井彰彦・東京大学大学院経済学 研究科教授や、そのゼミ生も相馬高校を継続的に訪問してくれている。更に、兵庫県神戸市の私立灘中学・高校とも交流が始まった。

同年代の意識の高い高校生との交流が、学習意識や意欲を高めることに大きく貢献した。今春の私立灘中学・高校の文化祭には、相馬高校の生徒が招待され、震災について意見交換することになっている。長期的な交流が両校の信頼関係を醸成しつつある。

相馬市の南に位置する南相馬市でも状況は同じだ。その中心は、地元で学習塾を経営する番場さち子氏である。震災後、他県から医療支援のために南相馬市に移ってきた医師や医療スタッフに協力を依頼し、地元の子どもたちを対象とした講演会、学習相談会、お食事会、小旅行等を繰り返している。

東日本大 震災・原発事故によって、相双地区は大きなダメージを受けた。復興は長期戦であり、その中核を担うのは子どもたちの世代だ。復興の成否は、人材育成にかかっていると言っても過言ではない。

ところが、福島県の教育レベルは、お世辞にも高いとは言えない。例えば、若年人口当たりの東大進学率は全国最低ランクだ。

また、東北大学進学率でも、東北地方最低だ。

相双地区は、福島県の中でも教育レベルが低い。これでは、復興など覚束ない。なぜ、こんなに取り残されたのだろうか。

それは、相双地区の教育環境整備が遅れているからだ。例えば、相双地区には、専修学校がいくつかあるが大学は一つもない。子どもは、身近にいる先輩や家族の姿を見て、夢や目標を定めていくもの だ。そのような意味で、大学生や大学院生がほとんど住んでいない当地区では、高校生が一流大学へ進学することは想像しがたい。

元来、相双地区は、温暖で衣食住には苦労せず生活しやすい土地である。高度な技能を修め、身を立てる必要性が低かったのかもしれない。交通の便が悪いため、外部からの刺激を受けづらい。この状況は、原発事故により、悪化する可能性が高い。

原発事故で人口が減少した影響もあり、相双地区の県立高等学校入試の倍率は一倍を切っている。必死に勉強しなくても、どこかには入学できる。このままでは、相双地区の学力は低下の一途を辿る。

このような状況を考える度に、相双地区に高度教育機関が欲しいと思う。一つでも大学があれば、人も集まり若者で街 が活性化され、未来を担う子供達によりよい学習環境が与えられるのにと歯がゆくてならない。

さて、今年3月の相馬高校卒業生の三名は、医師を希望し受験したが、残念ながら不合格だった。まだまだ学力が足りないのであろう。

では、なぜ医師を目指したのか、家庭環境が影響している。一名の父親は医師で、もう一名の父親は薬剤師である。震災後、とにかく患者や地域医療のために東奔西走した姿を見たという。もう一名は、沿岸部に住んでおり、津波で自宅は流された。長期間避難所生活をしていた中で、医師に憧れたのだろう。この三人の生徒のような志を持った生徒が医学部に進めば、地域医療を担う医師も増えるだろう。

そして、彼らの姿が、相双地区の子どもたちに刺激を与える。

最近、東北地区の医学部新設について様々なメディアで報じられている。筆者は大賛成だ。その理由は、医師不足の緩和だけではない。東北地区の生徒の学力向上に寄与すると考えるからだ。医学部をはじめ、高度教育機関が出来れば、入学を目指して勉強する生徒が増える。茨城県の筑波大学、福岡県の久留米医大など、その典型例だろう。筑波市は全国屈指の文教都市に成長した。

また、久留米医大関連の附設中高は、全国屈指の進学校である。あの孫正義氏も入学した(中退し、渡米)。

人材育成こそ、被災地復興の要だ。我々は、ありとあらゆる手段を用いて、教育の充実に尽力したいと考えている。現在の教育格差は、一朝一夕では改善しないと考えている。是非、末永いご支援をお願い したい。

<略歴>高村泰広(たかむらやすひろ)
1973年7月30日生まれ
1992年3月福島県立相馬高等学校理数科卒業
1996年3月山形大学理学部物理学科卒業
1998年3月山形大学大学院理学研究科物理学専攻電磁気学講座修了
1998年4月福島県立双葉翔陽高校講師
1999年4月二本松工業高等学校教諭
2003年4月相馬高等学校教諭
2012年4月新地高等学校教諭

MRIC by 医療ガバナンス学会