友人の医師からのメールです。震災前は、南相馬市小高区で開業していました。
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明日は中継ご苦労様です。
家の息子も小高中学校3年生の時に小高町のメンバーとして第7区を走りました。区間7位だったと思います。
前日にコースを車で走ってみましたが、かなりのアップダウンで「よくこんな所を走れるなぁ」と我が息子ながら感心しました。
駅伝はいつも色んなドラマがあって感動します。一生懸命に襷を繋ぐことが一体感を高めます。郷土愛も生まれます。苦しい先に喜びがあり、悲しみもあり、人生そのものですね。
明日は、トイレも我慢の生中継のようですが、頑張って下さい。ランナーから直に元気を頂けて良いですね。
さて、本日は、梁川病院に通っていた自分の患者さんが半年も顔を見せなかったので南相馬市鹿島区の仮設住宅に行ってきました。
85歳の男性です。新潟県の聖籠町に避難していた時はわざわざ三条まで会いに来てくれました。
鹿島の仮設に移動してからも梁川に来てくれていました。電話してみたら、どうも自暴自棄になって、「自分の身体はどうなっても良いから医者にも行っていない」ということでした。小高区の大富という比較的線量の高い地域に居た方で、若い人達はもう戻らないと決めているらしいのです。
今日は確かに今までのお元気な顔ではありません
でした。鹿島に嫁にくれた娘がいましたが、原発避難後、鹿島の住民に色んな事を言われたらしく、鹿島の地を恨んでい るような発言もありました。同じ南相馬市でもこういう訳です。
半年前に外来で「先生、俺の生きている間に戻れっぺか」との帰り際の一言が気になっていましたが、その後半年外来に来なくなってしまいました。
なんとか、絆診療所の遠藤先生に紹介状を書いておきますから何かの時にはお世話になるようにと話してきました。
避難も長期化するとこういう方も増えていると思いますね。 双葉食堂でもやしラーメンを食べてきました。いつものように美味しかったです。帰り際に店主(豊田英子さん)からチャーシューを1本下さいました。小高にいる時から週3回食べていました。
おばあちゃんも患者さんでした。旦那さんを無くしてからも、認知症の入ったおばあちゃんの面倒を見ながらお店を切り盛りしていました。色んな味がしみているチャーシューです。
そのあと小高に行ってきました。病院のブルーシートが捲れていたので直してきました。
台所にまた30cmもある大きなネズミが2匹死んでいました。
小高に沈む夕陽をカメラに収めてきました。
2013年11月16日 |
南相馬市
昨年4月16日に警戒区域が解除された南相馬市小高区。
除染、インフラ整備が進まず、住民の帰還の目処がついていない。
水が出なけりゃ、運べばいいさと、昨年4月20日過ぎに理容店を再開させた加藤さんご夫妻。
二人の前向きな話に、大竹まことさんも終止笑顔でうなずいていた。
その後、小高の皆さんの精神の拠り所「小高神社」に参拝し、南相馬市鹿島区のプレハブの診療所「絆診療所」へ向かった。
絆診療所の遠藤清次医院長は、震災前は市立小高病院の院長だった。
「仮設住宅から孤独死を出さない」を最大の目的に、遠藤先生が資材を投じて昨年の5月に小高の住民が住む仮設住宅の一画に絆診療所をオープンさせた。
「仮設住宅に住む人達の現状は最 悪です。ストレスからくる持病の悪化、将来の不安から体調を崩す人が増えています」と大竹まことさんや文化放送のスタッフに静かに語りかける遠藤先生の顔に何時もの笑顔はなかった。
文化放送の生ワイド「大竹まことのゴールデンラジオ」を11月11日(月曜)午後1時から3時30分までの2時間30分、絆診療所から生放送した。
2013年11月13日 |
南相馬市
文化放送のスタッフとタレントの大竹まことさんと一緒に飯舘、浪江、小高、原町区、鹿島を取材しました。
南相馬市原町区萱浜(かいはま)の上野敬幸(たかゆき)さん(41)を訪ねました。
上野さんは、ご両親と最愛の長女(8)長男(3)の家族4人を津波で亡くしました。
お父様と息子さんは、まだ、見つかっていません。
「子供を救えなかった無力な父親です」。
大竹まことさんは、上野さんの話しにじっと耳を傾けていました。
ただただ、じっと上野さんの悲しみを、自らの心の中に刻みこんでいました。
庭では、震災の年に生まれた2歳になる愛娘が、萱浜地区の復興の為に全国から来ているボランティアの皆さんに、笑顔を振りまいていました。
201 3年11月11日(月曜)、震災から2年8ヶ月の今日も、上野さんは家族や多くの行方不明者の手がかりを求めて、海岸を仲間と歩きます。
2013年11月11日 |
その他, 南相馬市
震災前、南相馬市小高区で今野外科医院を営んでいた今野明先生が、新潟県に避難している高齢のお母様の為に、一時帰宅しました。
今野先生からのメールをお読みください。
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本日、新潟県三条市に一人で避難中のオフクロが、一時帰宅しました。
三条市の計らいで、三条からボランティアで小高区にお手伝いの出来る方を募り、家の後片付けを手伝ってくれました。
ラジオ福島の深野アナウンサーも同行していました。
1年ぶりぐらいで帰宅した母屋は、ネズミの尿の臭いが充満し、私が2週間前に仕掛けたネズミ取りシートに10匹ぐらいかかっていました。
まだ動いているのも、ミイラのようになっているのもありました。
あまりの自宅の変わりようにオフクロは涙が 止まりませんでした。
かなり愕然としていました。
それでも、三条から来て下さったボランティアの方のお陰でかなり片づいたようです。
自分は午後の勤務がありましたので、お昼頃にその場を離れました。
87歳にとっては厳しい現実です。
今日は当直ですが、オフクロはまだ三条には着いていないと思います。
電話でその後の様子を聞くのも気が引けて聞けません。
こんな思いを多くの避難者の方はじっと耐えているのでしょうか。
高齢者にはキツすぎる状況です。
いつか患者さんが帰り際に残していった言葉が忘れられません。
「先生、俺の生きているうちに帰れっぺか」
自分はうまく答えられませんでした。
2013年10月10日 |
南相馬市
南相馬市立総合病院・神経内科
小鷹 昌明
2013年10月4日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行
8月31日の日曜日、呼びかけに応じてくれた南相馬市民と、お招きした田部井淳子さんとで裏磐梯にある雄国山に行ってきた。
私の市民活動のなかでも特に力を入れているのが、南相馬市民を対象とするハイキングである。昨年の秋から開始したことなのだが、手始めは新地町の『鹿狼山』で、その次は桑折町にある『半田山』であった。いずれも「楽しかった」と言ってくれる人が多かったので、企画第3弾としてはいよいよ百名山を考え、なかでも福島県の名峰“安達太良山”を視野に入れた。
そして、計画を立て始めたのだが、このあたりで何かもっと南相馬市民のためのサプライズ的な付加価値はないだろうかと考えていた。『山と渓谷』や『PEAKS』などの山岳雑誌に、僭越ながら取材要請のお便りを書いたのだが、返答はなかった。
そこで福島県の登山家と言えば、“田部井淳子さん”をおいて他にはない。もし、彼女と一緒に山登りができたら一生の宝になるのではないか。ダメでもともとである。私は、彼女のオフィシャルサイトにアクセスし、“お問い合わせ”欄に、「私はこの地に来てハイキング・イベントを開催しているのだが、南相馬市の復興の一助となるべく、ぜひ一緒に登山にご参加いただけると大変ありがたい」というようなことを、これまでの経緯を含めて長文にして書き込んだのである。そこは『株式会社タベイ企画』だったのだが、すぐに職員から、なんと直接の電話が来た。「ぜひ、協力したい」と。
田部井さんは、1939年生まれの76歳で、福島県田村郡三春町出身である。女性として世界で初めてエベレストと世界七大陸最高峰への登頂に成功した人物であることは、もちろん熟知していたが、さらに、彼女らはHAT-J(Himalayan Adventure Trust of Japan)という組織を作って活動していることを、このときはじめて知った。
環境について唱えている団体は数多くあるが、HAT-Jはそのなかでも、「山や自然を愛する人々が山の環境保護について考え、自分たちのできることから実行していこう」ということを理念とするNPO団体だった。
そして、東日本大震災の支援計画も立ち上げ、なんと被災者や被災地を力添えする取り組みも行っていた。名付けて“東北応援プロジェクト”である。その活動内容は、山岳環境保護団体として、被災者をお誘いしてハイキングに出かけるということや、一般参加者を募って「登って、泊まって、買って帰ろう!」を合言葉に東北応援登山ツアーを行うことであった。
偶然とはいえ、私はいいタイミングで田部井さんたちに、登山の参加依頼をしたのである。そこからは、共通意識のもとで計画を練り上げていくことができた。HAT-Jではバスや保険、ロープウェイ、温泉などの支払い、登山部分の段取り、靴のレンタルを行い、私は集客広報と参加者受付、バスの手配、下山後の温泉の選定を任された。そして、チラシの作成やサポート人員、雨天時の対応などは共同で進めていった。
私としては、すでにもう準備の段階から楽しかった。プロの登山家たちが、どのように事業を推進するのかということに、相当興味を引かれる部分があった。それは一言で言えば、用意周到である。メールや電話のやり取りは、優に30回を超えたであろう。私は私で、どのような人にご参加いただきたいかの考えを巡らせていた。そして、この街にも存在する山登り団体である“山遊倶楽部”に、一定人数来ていただけるよう声をかけた。山林の放射線汚染の問題で、活動が低迷していたからである。「彼らにも特別な喜びを与えたい」という気持ちと、山を愛している人たちに、当然優先権があると思ったからである。イベントでもっとも苦労する部分は集客や動員なのだが、“田部井さん効果”のせいか、ほとん
ど告知をせずとも口コミだけで大型バス1台分の予定人数を超過してしまった。
そして、8月31日の当日を迎えた。3日前までは70%の降水確率であったが、それをはね除けるような晴れ間に恵まれた。ただ、田部井さん率いるHAT-Jメンバーの前夜ギリギリまでの予測によって、目標を安達太良山から、万一雨が降ったとしてもそれなりにウォーキングの楽しめる雄国山に切り替えた。
一行は山の空気を満喫したり、自然を愛でたり、終始田部井さんたちと話をしながらピークを目指した。そのなかにおいて、スタッフ・チームの規律は確かなものがあった。私たち参加者を4グループに分けて、それぞれにリーダーを据えて目配りがなされ、最後尾は(この方もクライマーである)田部井さんのご主人が務めていた。
それは、ひじょうに統制のとれた、そして配慮されたプロたちの舵取りだった。
田部井さんとの会話で印象的だったのは、「もう、好き勝手にやらせてもらっている」という言葉だった。それというのも、彼女は乳がんを克復しているからである。私が言うのも大変おこがましいが、きっとその中には、己の長い長い苦悩と葛藤と、そして、これまでの自負というものがあるのではないか。
何か吹っ切れたというか、覚悟を秘めたというか、そういう“最後まで登山家”という彼女の生き方としての思いを強く感じた。
お陰で一行は無事に登頂を果たし、山頂でお弁当を食べ、下山後には安達太良山麓近くの「スカイピアあだたら」というレジャー施設で日帰り入浴を楽しんだ。
初対面同志でご挨拶をしたり、おしゃべりをしたりするなどして、交流を深めることで心身の健康増進にも寄与できたのではないかと思っている。
今回の山登りは、21歳から80歳までの市民が参加され、全員が頂にたどり着いた。「田部井さんの元気には負けられない」、「自然を味わい活力を得ることが、この街の人には大切だ」などという前向きな声を、たくさん聞くことができた。それは、とてもとても感動的で、頼もしいことだった。
参加者全員のそれぞれが、それぞれの想いで頂上を目指した。“山頂”という一点を目標に意識を共有させ、一体感を味わうことができた。
そして、参加者のなかにも、がん闘病中の人がいたことを後で知った。
以下は田部井さんのブログの一部である。ありがたいことに、当日のことが細かく記されていた。
『(8月)31日は、“HAT-J東北応援プロジェクト”と“南相馬市立総合病院”との共同企画で、南相馬市の方たちと安達太良山登山の予定だったのですが、夕方の天気を見ると山は風、霧で、猪苗代もあやしげだったので、南相馬の世話人の方(小鷹)と電話で話し、たとえ雨でも歩くことができて、避難小屋もある雄国山に変更することに決めました。
南相馬市とはなかなか接点がなかったのですが、たまたま、市立病院の先生から、私のところに連絡がありました。「自分は、元は栃木県の大学病院の神経内科医であったが、あの大震災以後「役に立ちたい」と願い、南相馬の病院に移ってきた。
しかし、病院診療だけでは、市民の方たちを元気にするには限界がある」と、自分自身で市民に呼びかけ山歩きを始めた。私たちがいろいろな方たちとハイキングしていることを知り、「なんとか協力いただけないか」とメールしてきたのです。
それをHATの東北応援プロジェクトに相談したところ、「南相馬の方たちとは今まで接点がなかったので、この機会にHAT-J東北応援プロジェクトで毎月行ってきたハイキングのひとつとしてやりましょう」ということで実現したのです。土曜日だったせいか若い人たちの参加が多くて良かったです。
9時50分に出発し、きれいなブナの森をゆっくり歩き、ちょうど12時に頂上に着きました。雄国沼も見えて全員大喜び。午後2時10分にバスの駐車場に戻り、南相馬の方たちは温泉へ。皆さん明るい顔で帰ってゆくのを見送り、私たちもそれぞれに車で帰りました。 ・・・』
感謝以外に言葉はない。改めて、田部井さん、HAT-Jとタベイ企画の皆様には大変お世話になりました。そして、本当にありがとうございました。
今回のイベントでは、山岳界においては超有名な人物をお招きすることができた。それはそれで、もちろん有意義なことであったのだが、同時に私は「これからこの街は何が大切で、何が必要なのか」ということを改めて考えさせられた。そして、その疑問は誰もが思っていることで、この地を訪れる人たちのほぼ全員に尋ねられる問いでもある。
震災の爪痕が残り、原発事故で復興の進まないこの場所において、繰り返しになるが「これからの南相馬市は何を目指して、何をすべきなのか」と。
結論ではないのだが、登山家や作家、音楽家、料理家、芸術家、俳優、歌手、フィルムメーカーなんでもいいのだが、まだまだこの土地には技能やスキルを届けてくれる人が必要だ。ただ勘違いして欲しくないのは、これからのこの街は、「援助してもらおう」というスタンスではない。私たちのような住民が、県外から来た支援者の活動に参加することで、来てくれた人たちに対しても同等に「良かった」と感じてもらいたいということである。
支援者と被支援者という関係ではなく、仲間として、あるいは堅苦しい言い方をするなら、日本の再生・復興・刺激のための“同志”として一緒に活動し、その技術を披露してもらいたいということである。与えてもらうのではない、共に学ぶのである。
そういう意味では、私は山岳家たちの制御を効かせた行動というものが大変勉強になった。
南相馬市は、自分の活動や考えていることを、――言い方によっては語弊を生むかもしれないが――トライできる場所である。さまざまなことを試み、そのなかで残っていく活動が、この街で求められていることなのである。私の行っている“木工教室”や“登山”は残るかもしれないが、“エッセイ教室”や“ラジオトーク”は、役目を終えて終息していくかもしれない。きっと、街の再生とはそういうものなのだろう。
これからも多くの人たちに、「元気を届けに」ではなく「共に楽しむ」ために、そして大袈裟に言うなら「生きるスキル」を届けるために、この南相馬を訪れてもらいたい。
今回の記事は転送歓迎します。その際にはMRICの記事である旨ご紹介いただけましたら幸いです。
MRIC by 医療ガバナンス学会 http://medg.jp
2013年10月6日 |
その他, 南相馬市