第349話 相馬東高校

 

 
相馬市にある福島県立相馬東高校で講演してきました。

被災地のど真ん中にある高校で、私が講演をやっていいのか、当日まで悩みました。

家を流され、家族を失い、原発事故により苦しい避難生活を余儀なくされている子供達の前で、私が震災を語る資格があるのだろうか。

その悩みを解決してくれたのは、相馬東高校から送られてきた生徒達の講演会の感想文でした。

①震災前、原釜に住んでいました。津波で全て流されました。私も津波にのまれ、30分泳いで屋根に登って助かりました。思い出したくない経験ですが、大和田さんの話を聞いて、語り継いでいこうと思い ました。

②僕は津波を見ました。原発の爆発音も聞きました。電機も水も食べる物もない、不自由なあの頃を思い出しました。僕の夢は、福島県の食材を使った美味しい料理を作る料理人になって風評被害をブッ飛ばすことです。

③講演を聞いて、あの頃を思い出し、鳥肌が立ちました。私の家は津波で流され、ばあちゃんがまだ見つかっていません。でも、悲しいの私だけじゃないんだって分かりました。涙をこらえて頑張って行こうと思いました。

④震災前は磯部に住んでいました。自宅も津波の被害を受けました。だから震災が憎いです。失った物が余りにも多いからです。でも、この震災で大切な物もたくさんあることが分かりました。復興に向けて頑張る気持ちを無くさずに、自分のスピ ードでゆっくり歩いて行こうと思いました。

⑤津波で多くの犠牲者を出した磯部の住民として、あの日の事を思いだしました。今も予震に脅える沿岸部の人達の不安や苦しみを少しでも多くの人に知ってもらいたいです。震災の話は聞きたくなかったのですが、改めて、あの震災を忘れない事の大切さを実感しました。伝えて行きます。

⑥私は津波で家をなくしました。あれから2年たって、あの頃の悲しみを忘れかけていました。震災の頃を思いだし、これまで自分を支えてくれた家族や友人に感謝していこうと思いました。

⑦涙を流しながら聞きました。震災で友達もバラバラになりました。避難所での苦しい生活を思いだしました。でも、たくさんの人達にお世話になりました。与えられた命 を大切に生きて行きます。ありがとうございました。

⑧私は原発事故で自宅に帰れません。今も不自由な避難生活を送っています。でも、いつまでも被災者と呼ばれたくありません。少しずつ当たり前の生活が戻ってきた事に感謝し、震災で経験した事を語り継いで行きたいと思います。ありがとうございました。

⑨震災のニュースはもう嫌だと思ってました。私の将来の夢は保育士になることです。話を聞いて、何かあったら子供達のことを、ちゃんと守れる保育士になろうと思いました。

⑩私は中学3年の時に震災にあいました。住んでいたのは原発のあった大熊町です。震災の次の日の3月12日には大熊町には誰も居ませんでした。それから2年1ヶ月、これまでに一度も自宅に帰っていま せん。震災後半年でPTSD になり体調を崩し、体重も4キロ減り、腹痛に襲われ、生きた心地がしませんでした。大熊町は原発と共に生きて来ました。小さい頃からリスクは感じていました。地元に帰りたいというニュースが流れると、不信感が募ります。大人、特に高齢者は帰りたいかもしれませんが、私達若者は帰りたいとは思ってないと思います。私も結婚して子供を産んでも、大熊に戻りたいとは思っていません。
大和田さんが言うように、福島県の復興・復旧を担うのが若者達ならば、マスコミはもっと若者の意見を聞くべきではないでしょうか。行政や大人の意見ばかりを扱うのではなく、私達の思いや主張をちゃんと伝えて下さい。宜しくお願いします。

★全てを受け止めて、未来に向けて歩み続ける高校生からパワー をもらいました。ありがとうございました。