★東日本大震災、県内では5人の警察官が殉職した。

皆、住民の避難誘導中に津波の犠牲となった。
最も若い20代の警察官が未だに発見されていない。
その日、双葉警察署員の増子洋一警部補と佐藤雄太巡査部長は非番だった。
大地震から15分後、署に駆け付けた2人は、パトカーで富岡駅前から沿岸部の住民の避難誘導に向い還らぬ人となった。
2人が乗っていたパトカーは海岸沿いの橋の下で
見つかった。
増子洋一警部補は30キロ沖合いで発見された。
しかし、佐藤雄太巡査部長は未だ行方不明となっている。
★2012年3月11日、双葉警察署富岡分署の庭に桜の苗木が植えられた。
増子洋一警部補と佐藤雄太巡査部長の名前 をとって「洋雄の桜」と名付けられた。
この日、津波で破壊されたパトカーの前で、佐藤雄太巡査部長の慰霊祭が行われた。
弔辞を読んだのは双葉警察署副署長の今野大さん。今野さんは、佐藤雄太巡査部長の警察学校時代の教官。今野副署長の了解を得て、ここに弔辞の全文を掲載する。
「弔辞」
雄太へ
雄太、早く帰ってこい
あれから1年、雄太、今日までよく頑張った。
雄太、もう頑張らなくていいんだ。
佐藤雄太の任務は解除する。
雄太の上司 増子警部補は、我が家に帰って来たよ。
だから雄太、もう頑張らなくていい。
お父さんとお母さんと妹さんが、お前の帰りをどんなに待ちわびているか
わかるな 雄太。
お前は、どこにいるんだ。
どこにいようとも、双葉署員と同期生が必ず見つけ出す。
雄太、今日はな、お前を知っている双葉署員と同期生が、こんなにいっぱい来ているぞ。
見えるか雄太。
雄太の顔を今 思い出している。お前は本当に明るく、ひょうきんで、人なつっこい。誰にでも好かれたな。
上司、先輩には弟のように可愛がられ、一般住民の方にも、直ぐに打ち解け、仲良くなり、行く先々で、みんなに慕われていたな。
それからな雄太、お母さんに聞いたら 女の子に
は、なぜかモテモテだったとか。
早く帰って来い。お父さん、お母さんのところに、早く戻って来い。
雄太、お前は双葉署員の、同期生の、福島県警察官全員の英雄だ。
我々の心の中に、これから先、ずっと生き続けていく。決して忘れない。
雄太、もう頑張らなくていいから、早く帰って来い。
雄太へ
双葉警察署署員一同。


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2012年12月30日 |
双葉町
★12月31日(月曜日)、大晦日の「月曜Monday (もんだい)夜はこれから」は、対談「これでいいのか福島県・故郷再生への提言」と題してお送りします。
スタジオゲストは、全村避難となっている飯舘村の菅野典夫村長・詩人で高校教師の和合亮一さん・毎日新聞元科学環境部長で福島支局長を勤めた斗ケ沢秀俊さんの3人。
また、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實先生には電話で番組に参加してもらう。
4人のゲストには、震災から1年9か月経った福島の現状を それぞれの立場で話してもらいながら、復興・復旧への提言を伺う。
過激な発言に、当局やネトウヨから圧力がかかるかもとウキウキしているのは、私だけか。
今年最後の放送が、番組最後になるかも。
★31日(月曜日)夜7時からの110分の生放送「月曜Monday(もんだい)夜はこれから」。
番組は、ユーストリームを通して音声と映像を世界中に発信。県外の方は、パソコンかスマホでどうぞ。
http://www.ustream.tv/recorded/28158645
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2012年12月30日 |
飯館村
★原発事故により警戒区域となっている双葉町。
2012年12月26日(水曜日)。

写真①双葉町公民館前。
原発と供に生きてきた双葉町を象徴するかのようなアーチ。
「原子力明るい未来のエネルギー」。
しかしそれは、自民党政権時代に、国策として推し進めてきたもの。安全、安心の名のもとに。安全神話が崩れ去った今も、安倍政権からは反省はあっても、謝罪の声はいっさい聞かれない。
選挙では、「脱・卒・0(ゼロ)」などと、原発事故が弄ばれて終わってしまった。

写真②JR 双葉駅ホーム。
錆びた線路が1年9ヵ月の時の流れを物語る。
近くのアパートのベランダには洗濯物が干したままになっていた。
浪江町や双葉町の住民には、原発事故が起きる前の3月12日朝に、避難指示が一斉に出た。住民は直ぐに戻れると思い、貴重品を持たずサンダルのまま避難した人もいた。

写真③双葉駅の売店に残る2011年3月11の新聞。
警戒区域になっている、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町は震災の日から時間が止まっている。
「復興元年」の掛け声の虚しい1年だった。
★原発事故により12万人が故郷をおわれ、苦しい避難生活を強いられている。ストレスから肥満、高血圧、糖尿病、認知症が進み、将来の不安から自らの命を絶つ人もいる。
被 災3県の中で、震災関連死は福島県が突出して多い。
福島県は「震災関連死」ではなく、「震災原発事故関連死だ!」と、地元新聞社の編集局長が言った。
避難住民、特に一人暮らしの高齢者の体と心のケアが最優先課題となっている。
今年1年、取材していて一番多く聞かれた言葉、
「原発事故さえなかったら」
この言葉が重くのしかかる。
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2012年12月30日 |
双葉町
★警戒区域の浪江町。

2012年12月26日(水曜日)。
写真①
浪江町請戸地区。打ち上げられた舟、破壊された自動車が草に埋もれて放置されている。

写真②
浪江町請戸地区。
殉職警察官の慰霊碑。
住民への避難誘導を行っていた警察官3人のうち、最後方にいた1人が、パトカーと一緒に津波に流された。遺体は4月15日に発見された。彼はこの日、非番だったが、地震から15分後には浪江署に来ていた。そして自らの判断で、請戸地区に入り住民への避難誘導を行った。退職後は、故郷の矢祭町に帰って、農業をするのを楽しみにしていた。合掌。

写真③
浪江町役場。
除染作業で出た汚染土が浪江町役場敷地内に集められていた。
中間貯蔵施設も決まっていない双葉郡。放射能を浴びた瓦礫や土を、これからどこへ運ぶというのか。

写真④
誰もいない浪江町中心部。
地震の影響で潰れた家屋。2011年3月11日午後2時46分で、全ての時間が止まっている。
★原発事故の影響で、立ち入りが制限され、帰れない警戒区域。浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、あれから1年9ヵ月経っても何も変わっていない。
朽ちて行く町がそこにあるだけ。「復興元年」の掛け声が虚しい1年だった。
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2012年12月28日 |
浪江町
★昨日、岩手県北上市の復元納棺師・笹原留似子さんと一緒に、いわき市沿岸部(薄磯、四倉、久之浜)を訪ねました。

いわき市では、2人の小学生が津波の犠牲になりました。
2人とも、薄磯にある、豊間小学校の女の子です。
そのうちの1人が、鈴木姫花(ひめか)ちゃん10歳。
デザイナーになるのが、夢でした。その夢は、震災によって、断ち切られました。
お父さんの貴(たかし)さん36歳は、毎日姫花ちゃんが流された実家に足を運び、手を合わせ、線香を手向けます。
いつ行っても新しい花が供えられ、昨日は、姫花ちゃん の好きなキャラクターの数も増えていました。
貴さんが言いました。「姫花は、神様が10年間、私達夫婦にお貸ししてくれた宝ものでした。今、貸与期間が完了し、姫花は、神様のもとに帰って行ったんです」と。
お父さんは、姫花ちゃんが最期にいた場所から5分の高台に、家を建てました。

★姫花ちゃんの部屋。
着飾った姫花ちゃんの写真。そして、クリスマスツリー。このクリスマスツリーは、姫花ちゃんの背の高さに合わせて作りました。150センチです。
そして、姫花ちゃんが最期にいた、お父さんの実家。
基礎の前には、お父さんが壊れたブロックを組んで、HIMEKA とかきました。
天国の姫花ちゃんに見えるように。
毎日ここに来て貴さんは姫花ちゃんに言います。
「助けてあげられなくて、ゴメンね」。
すると姫花ちゃんの優しい声が聞こえます。
「パパ、頑張ってね」。
その言葉に励まされながら、貴さんは懸命に生きています。

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2012年12月4日 |
いわき市
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