浪江町

第262話 浪江レポート③

 

浪江町の中心部。

双葉警察署交通課長の平野さんから、町の被害情況、4月から警戒区域が解除された後の問題点と警察の取り組み等の説明を受けた。
 
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そして、旧浪江警察署で、原発事故で遅れた20キロ圏内のご遺体の捜索や、遺族との対応について貴重な話を聞く事ができた。

原発事故後、いったん打ち切られた遺体捜索が再び始まったのは、4月になってからだった。

旧浪江警察署(現双葉警察浪江分署)に運ばれてくる損傷の激しいご遺体を、警察官は丁寧に洗い棺に納めた。

しかし、ご遺体と対面した遺族は言う。

「こ んなんじゃ、分からないだろう!今までお前らは何をやっていたんだ」と。

遺族対応に当たっていた平野さんは「申し訳ありませんでした」と、頭を下げるだけだった。

「捜索が遅れて申し訳ありませんでしたと、警察官は皆、泣きながらご遺体を洗っていました」と、平野さんは語った。

そして後日、平野さん達を怒鳴り付けた遺族が「あの時はお世話になりました」と安置所に挨拶に来てくれた時は、涙が止まらなかったという。

福島県警では、この震災で5人が殉職している。

浪江町で最も津波の被害が大きかった請戸にある、殉職警察官の慰霊碑を訪ねた。

彼はその日は非番だった。地震発生直後、浪江分署に駆けつけ、若い警察官2人と請戸地区の住民の避難誘導にあたった。

幹線道路は渋滞、若い警察官2人を先頭に立たせ、自分は渋滞の最後方で住民に車を降りて走って逃げろと指示を出していたところを津波に襲われた。

遺体は4月15日に瓦礫の下から見つかった。
53歳だった。

将来は、故郷の矢祭町に帰って、農業をやるのが夢だった。

煙草の好きな人だった。

長い間手を合わせていたカンニング竹山さんは、自らの煙草に火を付け、線香と一緒に霊前に手向けた。

(殉職警察官5人のうち、26歳の若き警察官がまだ見つ かっていない)

合掌。

第261話 浪江レポート②

 

 
浪江町津島の双葉砕石場に着くと、放射線量が一気に、この日最大値の20マイクロシーベルトまで上昇した。「うわ~高い!」カンニング竹山さんの声が辺りに響いた。
 
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その後の静寂さの中に、請戸川の清流の音だけが耳に残った。

「これからトンネルに入ります。線量計の数値を見てて下さい」

私の声に、一斉に放射線測定器に目をやる。

トンネルに入った。

20マイクロシーベルトまで上昇した数値が一気に下がる。

「0.1まで下がりましたね。びっくりです。コンクリートの放射線の遮蔽率がこんなに高いなんて驚き です」。

トンネルを抜けると、線量計の数値は、あっという間に5マイクロシーベルトまで上昇した。

浪江町の中心部に入った。写真は浪江駅前と商店街の様子。2011年3月11日(金曜)から、何もかわっていない。

浪江駅前の横断歩道には、県民の皆様の浄財で設置した「視覚障害者用音の出る信号機」が錆びたままの状態で残っていた。

浪江町復興の証しとして、またここに「音の出る信号機」を設置しようと強く思った。

第260話 浪江レポート①

 

3月11日(月曜日)、タレントのカンニング竹山さんとTBC Dig のスタッフと一緒に、警戒区域の浪江町、昨年4月16日に警戒区域が解除された南相馬市小高区、そして津波の被害が最も大きかった南相馬市原町区萱浜(かいはま)を回った。
取材のテーマは「原発事故さえ無かったら」。

 
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朝10時に福島駅を出発、途中川俣町にある双葉警察署浪江分署に寄り、この日現地を説明してくれる双葉警察署交通課長平野さんのパトカーの先導のもと、警戒区域の浪江町に向かった。

浪江町の手前、伊達郡川俣町山木屋は避難地域に指定されていて、立ち入りはできるが、居住はできない。無人の町を目の当たりにして、カンニング竹山さんが思わず、「今にも誰かが出てきそう。しかし誰れもいない。怖さを感じる」と呟いた。

牧場近くに来ると、放射線測定 器の数値が車内で5マイクロシーベルトを 記録し、カンニング竹山さんをはじめTBS のスタッフからも驚きの声があがった。

因みに福島の駅前の数値は、0.12マイクロシーベルトだった。

浪江町津島の検問所には徳島県警察から若い警察官が配属され、検問に当たっていた。

県外からの応援部隊は「ウルトラ警察隊」と呼ばれている。

福島市や川俣町、飯舘村、南相馬市などには「ウルトラ警察隊の皆さんへ。全国からの支援ありがとう」等の手書きのプラカードが道路脇に立っている。

第216話 浪江町 警戒区域レポート③

 

4月から区域が再編される浪江町。役場庁舎西側には、除染した汚染土が大量に持ち込まれている。
 
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3・11、地震発生直後、校長や地域の人達の素早い判断で全校児童が無事に避難した請戸小学校。時計の針は3時38分を指している。

1階は津波で破戒されたが、かろうじて残った2階教室の黒板には、復興へのメッセージが所狭しと、書き込まれている。

2階ベランダからは、事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所の排気搭が見える。距離は南へ7キロ。

太平洋の恵みと共に生きてきた請戸は、波の音だけしかしない無音の町になってしまった。

賑わい を忘れた請戸港には、陸に打ち上げられた漁船が強風に煽られて泣いていた。

第206話  請戸小学校の奇跡

 

今日、毎日新聞東北版(2月6日朝刊)に「請戸小学校の奇跡」を書きました。

朝、当時の請戸小学校の先生から、「涙を流しながら、読みました。ありがとうございました」と、ご連絡を頂きました。

文章の中にある「いわきナンバーのトラック運転手さん」についても、情報があったとの事、嬉しい限りです。

ぜひ、お読み下さい