第539話 請戸小学校の52分②
請戸小学校から大平山に向かう道。夏草に覆われ、花に止まる蝶の遥か遠くに目指す大平山が見える。
90人を超える児童・教師が励ましあいながら、西へ向かった。40分後、請戸は太平洋の一部となった。
請戸小学校は1階部分は津波で破壊されたが、2階は奇跡的に残った。
学校の正面玄関に設置された請戸の地図を傘で指し示し、避難経路を説明してくれた佐藤信一先生。
2013年8月25日 | 浪江町
浪江町
請戸小学校から大平山に向かう道。夏草に覆われ、花に止まる蝶の遥か遠くに目指す大平山が見える。
90人を超える児童・教師が励ましあいながら、西へ向かった。40分後、請戸は太平洋の一部となった。
請戸小学校は1階部分は津波で破壊されたが、2階は奇跡的に残った。
学校の正面玄関に設置された請戸の地図を傘で指し示し、避難経路を説明してくれた佐藤信一先生。
2013年8月25日 | 浪江町
140人が亡くなり、今も30人が行方不明となっている請戸地区は、漁業を中心に太平洋の恵みと共に生きてきた。
海沿いに立つ請戸小学校は、1階は津波で破壊されたが、奇跡的に2階部分が残っている。各教室の時計は3時38分をさしたまま。そこには生死を決めた運命の52分間があった。
地震発生直後、近隣の住民が「この地震は普通じゃない。津波がくる。子供達を避難させろ」と学校に集まった。校長は直ぐに避難を決めた。西の空は赤く燃え、東の太平洋は黒い雲に覆われていた。
地震発生時、すでに下校していた1年生11人を除く2年生から6年生までの83人が校舎にいた。
校長と教頭が学 校に残り、13人の教師は6年生を先頭に、災害時の避難場所に指定されていた学校から西へ1・5キロ離れた大平山を目指した。生徒の列に等間隔で教師が入り、大きな声で情報を伝達しながら歩き始めた。車椅子の児童もいた。
大津波が請戸の町を飲み込むのに、あと40分と迫っていた。
結果、請戸小学校は一人の犠牲者も出さなかった。
子供達の命を救った避難行動について、当時の請戸小学校の教師・田中和美さん、佐藤信一さん、石川美代子さんの3人に話を聞いた。
放送は、8月26日(月曜日)夜7時から。
県外の方はパソコンかスマホでどうぞ。
『月曜Monday 夜はこれから!』(ラジオ福島)
【ustream】 月曜 19:00~20:50
http://www.ustream.tv/channel/rfc-radio
【facebook】
https://www.facebook.com/Monday1458
浪江町の沿岸部、請戸小学校の放送室にあったハートのプーさん。
10メートルを超える大津波にも耐え、学校に残ったハートのプーさんは、何を語ろうとしているのか。
請戸小学校は、海岸から300メートルしか離れていない。学校の時計は全て3時38分で止まっている。
そこには、運命の52分間があった。
だれ一人として犠牲者をださず、全児童、全教職員が無事に避難できた請戸小学校の奇跡の52分を知る事は、これからの防災を考える重要なヒントになると思う。
8月26日(月曜日)の「月曜Monday ( もんだい)夜はこれから」は、「請戸小学校の52分」と題して、3・11の請戸小学校の避難の模様を、当時の請戸小学校の3人の教員の証言を元に振り返る。
インタビューを行ったのは、請戸小学校2階、6年生の教室。
教室の窓越し、南へ7キロの地点には、東京電力福島第一原子力発電所の排気搭と建屋がはっきり見える。
「第95回全国高等学校野球選手権記念大会」の始球式のバッテリーと開会式の先導役が決まり29日(月曜日)に発表された。
始球式の投手は岩手・宮古北高校の山本将大君(3年)、捕手役は宮城・石巻商業高校の今野克哉君(3年)、入場行進先導役は福島県立福島東高校の今泉翔太君(3年)に決まった。
始球式を務める山本君は、東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市田老地区の出身。同地区の中学校で被災し、山側へ走って逃げた。自宅は津波で流され、祖父が犠牲になった。現在も仮設住宅で生活し、高校へ通っている。高校への入学者が減った為、今年は宮古北・西和賀の連合チームで岩手大会に出場した。
捕手の今野君は、校舎やグラウンドが津波の被害を受けた石巻商業に入学。4月下旬には練習は再開されたが、練習時間の制約を受けながら野球に打ち込んできた。
一昨年秋の宮城大会は1年生で遊撃手のレギュラーを獲得したが、4位に終わり東北大会出場はならなかった。捕手となった昨年秋の宮城大会は、3位となって東北大会に出場したが、1回戦で敗退し、選抜大会への出場は叶わなかった。
先導役を務める福島東高校の今泉翔太君は、今年4月1日に警戒区域が解除となった福島県浪江町出身。双葉高校に入学が決まっていたが、東京電力福島第一発原子力発電所の爆発事故の為に家族で福島市に避難し、福島東高校に入学した。
厳しい環境の下で大好きな野球を 続け、3番打者の遊撃手としてチームを引っ張ってきた。チームメイトで東高校エースの松下凌君は全村避難の飯舘村からの避難者。「松下君がいたから今の自分があると」と感謝の気持ちも忘れない。
今春の福島大会では準優勝し、創部34年目で春秋を通じて初めて東北大会へ出場し、ベスト4に入った。
この夏の福島大会では第2シードで出場し、ベスト4に進出した。
4月1日に警戒区域が解除された浪江町の沿岸部請戸(うけど)地区に入った。
ここは浪江町で最もの津波の被害が大きかった。140人が亡くなり、今も30人が行方不明となっている。
海から300メートルの所にある請戸小学校の二階に上がった。各教室の黒板には、復興・復旧を願うメッセージが書き込まれている。
堀潤さんは一つ一つのメッセージを噛み締めるように声に出して読んだ。
「天は乗り越える事の出来る試練しか与えない」「われらは海の子」
請戸小学校2階の教室から南へ7キロの地点にある東京電力福島第一原子力発電所の排気搭がはっきり見えた。
震災前はここから排気搭は全く見えなかった。それは、この回りが住宅地で森や林に囲まれてい たからだ。
地震発生時、請戸小学校には83人の児童がいた。津波が押し寄せるおよそ50分の間に、全児童と教職員全員が避難し、1人の犠牲者も出していない。
堀潤さんは言った。「地震発生時の学校や地域の住民のとっさの判断が子供達の命を守ったんですね。請戸小学校の奇跡を後世に語り継いで行く事が、防災に繋がりますね」と。
請戸地区にある町慰霊碑の前で、堀潤さんは長い間手を合わせていた。
2013年6月26日 | 浪江町