いわき市

第23話 山口勇3等陸佐②

 

いわき市薄磯海岸の豊間中学校のピアノを守ってくれた、陸上自衛隊幹部の山口勇3等陸佐にインタビューした。

彼がいなければ、ピアノは瓦礫になっていた。

大分県出身の山口勇さんは、日本を守るという指命感を持って、横須賀市にある防衛大学校に入学した。

3・11の震災を受け、山口勇さんら福岡県小郡駐屯の自衛隊は、相馬市・南相馬市沿岸部の道路を復旧させるため「復興の架け橋」を建設するなど、復興車輌の支援に尽力した。

橋の材料は全て福岡県から運んできた。

昨年5月15日から4日間かけて、自衛隊員40人で豊間中学校の体育館の砂と瓦礫を撤去した。

その時、体育館のステージの上に倒れていたグラウンドピアノを体育館中央に丁寧に運んだ。

学校の復興を願って。

山口勇3等陸佐が救った豊間中学校のグラウンドピアノと、「復興の架け橋」が写真に残っています。

YouTube(クリックで別ウインドウで開きます)で見られます。

私が携帯で撮った震災関連の写真に、浪江町出身の門馬よし彦さんの名曲「願い」をバックにつけました。

是非、ご覧下さい。

第22話 山口勇3等陸佐①

 

明日朝8時20分から、豊間中学校のピアノを守ってくれた、陸上自衛隊幹部の山口勇3等陸佐にインタビューします。

彼がいなければ、ピアノは瓦礫になっていました。

さらに、山口勇さんら福岡県小郡駐屯の自衛隊は、相馬市・南相馬市沿岸部の道路を復旧させるために仮の橋「復興の架け橋」を建設、復興車輌の支援に尽力しました。

橋の材料は全て福岡県から運んできたものです。

山口勇3等陸佐が救った豊間中学校のグラウンドピアノと、「復興の架け橋」が写真に残っています。

YouTube(クリックで別ウインドウで開きます)で見られます。

私が携帯で撮った震災関連の写真に、浪江町出身の門馬よし彦さんの名曲「願い」をバックにつけました。

是非、ご覧下さい。

第20話 奇跡のピアノ

 

いわき市平豊間にある、乙姫蒲鉾(おとひめかまぼこ)会長・四家広松さんを偲ぶピアノコンサートが、いわき市の結婚式場の一室をお借りして開かれました。

このピアノコンサートを開いたのは、広松さんの息子で、乙姫蒲鉾現社長の四家広彰さんです。

平成11年9月、(故)四家広松さんは、お孫さんの豊間中入学を記念して一台のグラウンドピアノを学校に寄贈しました。

このグラウンドピアノは豊間中学校の体育館に置かれ、入学式や卒業式で校歌を奏で、生徒達の成長を見つめてきました。

2011年3月11日午前、豊間中学校では卒業式が行われ47人が巣だっていきました。

その3時間後大津波が学校を襲いました。
体育館の時計は、3時28分で止まっています。
幸い生徒には被害はありませんでしたが、豊間中学校がある薄磯地区では104人が亡くなり、未だ7人が行方不明になっています。

昨年5月上旬、福岡県小郡市の自衛隊員40人によって、膝まであった砂と瓦礫が撤去され、ステージの上に横転していたグラウンドピアノが、体育館の中央に丁寧に運ばれました。

豊間中学校の復興を願って。

5月20日、自衛隊の善意を知った豊間中学校の関係者300人が体育館に集まり、ボロボロになったピアノで校歌を歌い、校舎に別れを告げました。

その後ピアノはずっと一人ぼっちでした。

「ピアノを瓦礫にしたくない!」いわき市の調律師・遠藤洋さんがピアノの修理を申し出ました。
遠藤さんは学校、寄贈者、市教育委員会から修理の許可を取り付け、8月1日ピアノを体育館から運び出しました。家族6人で。

運び出されたピアノは強い磯の臭いがしました。内部には砂が入り、弦は錆び付き、鍵盤も無くなっていました。

凡そ1万個にも及ぶ部品の取り換え作業が、半年間続きました。 遠藤さんの夢は、このピアノでもう一度豊間中学校の子供達に校歌を歌ってもらうことでした。

奇跡のピアノの復活を信じて、遠藤さんは懸命に修理を行いました。

そして今年3月11日、震災からちょうど1年、豊間中学校の生徒がこのグラウンドピアノで高らかに校歌を歌いました。

ピアノが本当に復活した瞬間でした。

校歌を伴奏したのは、昨年5月20日ボロボロのピアノで泣きながら校歌を弾いた、磐城高校3年生の小野幸輔くんでした。

幸輔くんの実家も、薄磯で蒲鉾の製造販売業を営んできましたが、津波で全てが流されました。

大切にしていたピアノも。

このグラウンドピアノを豊間中学校に寄贈した四家広松さんは、6年前93歳で他界されました。

ピアノの右側には、四家広松さんの名前と寄贈された年月日が書かれています。

この日、ピアノを修理した遠藤洋さんは挨拶の中で、「私はこのピアノに四家広松さんの名前がなかったら、修理をさせてもらわなかったかもしれません。私達はこの震災で多くの大切な物を失いました。しかし、代わりに家族や、人と人を結ぶ『絆』の大切さを実感することができました。これからも、ピアノを寄贈した時の四家広松さんの思いをずっと残していければと思っています。私の後は、調律師の息子達がこの思いを未来に繋いで行きます」と。

コンサートでは、このグラウンドピアノの復活の物語に感動した沖縄出身のsinger・普天間かおりさんと、地元いわき市のアマチュアミュージシャン・斎藤淳さんが、美しい歌声を披露しました。

ピアノコンサートを企画した四家広彰さんは、「諦めていたピアノに、再び命を与えて下さった遠藤洋さんや関係者の皆さんに、心から感謝致します。親父も喜んでいると思います」と挨拶し、ピアノに一礼しました。

奇跡のピアノは福島の復興・復旧のシンボルの一つとして、これからも私達に元気と勇気を与えてくれると信じています。

第18話 自衛隊の思い

 

2011年3月11日午前、いわき市薄磯の豊間中学校では卒業式が行われ、47人が巣立って行った。

その3時間後、大津波が学校を襲った。

時計の針は、3時28分で止まっている。

幸い生徒に被害はなかったが、薄磯地区は100人が亡くなり、10人が行方不明となっている。

5月14日、福岡県小郡駐屯地の陸上自衛隊員40人が 豊間中学校体育館に入った。

全ての瓦礫を撤去する為に。

自衛隊は、膝まであった瓦礫と砂を4日間かけて撤去した。

床を瓦礫の中から見つけたモップと、自分達のペットボトルの水を使って、ピカピカに磨きあげた。

ステージ上には、津波の被害を受け横転したグラウンドピアノがあった。

指揮をとっていた山口勇3等陸佐が言った「このグラウンドピアノを体育館の中央に運ぼう」

ピアノを見た山口勇3等陸佐は、「このピアノは豊間中学校の復興のシンボルになる」と直感したという。

山口勇3等陸佐の指示を受け、自衛隊員によりピアノは丁寧に体育館中央に運ばれた。

豊間中学校の復興を願って。

自衛隊の善意を知った豊間中PTA が動いた。

昨年5月20日、体育館に学校関係者300人が集まり、このピアノで校歌を歌い学校に別れを告げた。

その後ピアノは一人ぼっちになっていた。

「ピアノを瓦礫にしたくない」

いわき市の調律師・遠藤洋さんがピアノの修理をかってでた。

市教育委員会、学校、寄贈者の了解を得て、8月1日、ピアノを体育館から運び出した。

その後、1万個にも及ぶ部品の修理が、半年間続いた。

震災から1年経った3月11日、豊間中学校の生徒がこのピアノで校歌を歌った。

本当にピアノが甦った瞬間だった。

自衛隊の山口勇3等陸佐は、ラジオ福島のホームページで、ピアノの復活を知った。

嬉しくて胸が熱くなった。

そしてこの9月、横浜高島屋で行われた「大東北物産展」の会場で、調律師の遠藤洋さんと自衛隊の山口勇3等陸佐が対面した。

2人は、黙ったまま力強く握手を交わした。

「奇跡のピアノ」は今、復興・復旧のシンボルとして日本中に被災地の喜びや悲しみを伝えている。

ピアノを瓦礫にしなかった2人の男に心から感謝。