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第615話 南相馬市民と「山登り」に行ってきました Part 2:“田部井淳子さん”をお招きして

 

 
南相馬市立総合病院・神経内科 
小鷹 昌明

2013年10月4日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  

8月31日の日曜日、呼びかけに応じてくれた南相馬市民と、お招きした田部井淳子さんとで裏磐梯にある雄国山に行ってきた。

私の市民活動のなかでも特に力を入れているのが、南相馬市民を対象とするハイキングである。昨年の秋から開始したことなのだが、手始めは新地町の『鹿狼山』で、その次は桑折町にある『半田山』であった。いずれも「楽しかった」と言ってくれる人が多かったので、企画第3弾としてはいよいよ百名山を考え、なかでも福島県の名峰“安達太良山”を視野に入れた。

そして、計画を立て始めたのだが、このあたりで何かもっと南相馬市民のためのサプライズ的な付加価値はないだろうかと考えていた。『山と渓谷』や『PEAKS』などの山岳雑誌に、僭越ながら取材要請のお便りを書いたのだが、返答はなかった。

そこで福島県の登山家と言えば、“田部井淳子さん”をおいて他にはない。もし、彼女と一緒に山登りができたら一生の宝になるのではないか。ダメでもともとである。私は、彼女のオフィシャルサイトにアクセスし、“お問い合わせ”欄に、「私はこの地に来てハイキング・イベントを開催しているのだが、南相馬市の復興の一助となるべく、ぜひ一緒に登山にご参加いただけると大変ありがたい」というようなことを、これまでの経緯を含めて長文にして書き込んだのである。そこは『株式会社タベイ企画』だったのだが、すぐに職員から、なんと直接の電話が来た。「ぜひ、協力したい」と。

田部井さんは、1939年生まれの76歳で、福島県田村郡三春町出身である。女性として世界で初めてエベレストと世界七大陸最高峰への登頂に成功した人物であることは、もちろん熟知していたが、さらに、彼女らはHAT-J(Himalayan Adventure Trust of Japan)という組織を作って活動していることを、このときはじめて知った。

環境について唱えている団体は数多くあるが、HAT-Jはそのなかでも、「山や自然を愛する人々が山の環境保護について考え、自分たちのできることから実行していこう」ということを理念とするNPO団体だった。

そして、東日本大震災の支援計画も立ち上げ、なんと被災者や被災地を力添えする取り組みも行っていた。名付けて“東北応援プロジェクト”である。その活動内容は、山岳環境保護団体として、被災者をお誘いしてハイキングに出かけるということや、一般参加者を募って「登って、泊まって、買って帰ろう!」を合言葉に東北応援登山ツアーを行うことであった。

偶然とはいえ、私はいいタイミングで田部井さんたちに、登山の参加依頼をしたのである。そこからは、共通意識のもとで計画を練り上げていくことができた。HAT-Jではバスや保険、ロープウェイ、温泉などの支払い、登山部分の段取り、靴のレンタルを行い、私は集客広報と参加者受付、バスの手配、下山後の温泉の選定を任された。そして、チラシの作成やサポート人員、雨天時の対応などは共同で進めていった。

私としては、すでにもう準備の段階から楽しかった。プロの登山家たちが、どのように事業を推進するのかということに、相当興味を引かれる部分があった。それは一言で言えば、用意周到である。メールや電話のやり取りは、優に30回を超えたであろう。私は私で、どのような人にご参加いただきたいかの考えを巡らせていた。そして、この街にも存在する山登り団体である“山遊倶楽部”に、一定人数来ていただけるよう声をかけた。山林の放射線汚染の問題で、活動が低迷していたからである。「彼らにも特別な喜びを与えたい」という気持ちと、山を愛している人たちに、当然優先権があると思ったからである。イベントでもっとも苦労する部分は集客や動員なのだが、“田部井さん効果”のせいか、ほとん
ど告知をせずとも口コミだけで大型バス1台分の予定人数を超過してしまった。

そして、8月31日の当日を迎えた。3日前までは70%の降水確率であったが、それをはね除けるような晴れ間に恵まれた。ただ、田部井さん率いるHAT-Jメンバーの前夜ギリギリまでの予測によって、目標を安達太良山から、万一雨が降ったとしてもそれなりにウォーキングの楽しめる雄国山に切り替えた。

一行は山の空気を満喫したり、自然を愛でたり、終始田部井さんたちと話をしながらピークを目指した。そのなかにおいて、スタッフ・チームの規律は確かなものがあった。私たち参加者を4グループに分けて、それぞれにリーダーを据えて目配りがなされ、最後尾は(この方もクライマーである)田部井さんのご主人が務めていた。

それは、ひじょうに統制のとれた、そして配慮されたプロたちの舵取りだった。

田部井さんとの会話で印象的だったのは、「もう、好き勝手にやらせてもらっている」という言葉だった。それというのも、彼女は乳がんを克復しているからである。私が言うのも大変おこがましいが、きっとその中には、己の長い長い苦悩と葛藤と、そして、これまでの自負というものがあるのではないか。

何か吹っ切れたというか、覚悟を秘めたというか、そういう“最後まで登山家”という彼女の生き方としての思いを強く感じた。

お陰で一行は無事に登頂を果たし、山頂でお弁当を食べ、下山後には安達太良山麓近くの「スカイピアあだたら」というレジャー施設で日帰り入浴を楽しんだ。

初対面同志でご挨拶をしたり、おしゃべりをしたりするなどして、交流を深めることで心身の健康増進にも寄与できたのではないかと思っている。

今回の山登りは、21歳から80歳までの市民が参加され、全員が頂にたどり着いた。「田部井さんの元気には負けられない」、「自然を味わい活力を得ることが、この街の人には大切だ」などという前向きな声を、たくさん聞くことができた。それは、とてもとても感動的で、頼もしいことだった。

参加者全員のそれぞれが、それぞれの想いで頂上を目指した。“山頂”という一点を目標に意識を共有させ、一体感を味わうことができた。

そして、参加者のなかにも、がん闘病中の人がいたことを後で知った。

以下は田部井さんのブログの一部である。ありがたいことに、当日のことが細かく記されていた。

『(8月)31日は、“HAT-J東北応援プロジェクト”と“南相馬市立総合病院”との共同企画で、南相馬市の方たちと安達太良山登山の予定だったのですが、夕方の天気を見ると山は風、霧で、猪苗代もあやしげだったので、南相馬の世話人の方(小鷹)と電話で話し、たとえ雨でも歩くことができて、避難小屋もある雄国山に変更することに決めました。

南相馬市とはなかなか接点がなかったのですが、たまたま、市立病院の先生から、私のところに連絡がありました。「自分は、元は栃木県の大学病院の神経内科医であったが、あの大震災以後「役に立ちたい」と願い、南相馬の病院に移ってきた。

しかし、病院診療だけでは、市民の方たちを元気にするには限界がある」と、自分自身で市民に呼びかけ山歩きを始めた。私たちがいろいろな方たちとハイキングしていることを知り、「なんとか協力いただけないか」とメールしてきたのです。

それをHATの東北応援プロジェクトに相談したところ、「南相馬の方たちとは今まで接点がなかったので、この機会にHAT-J東北応援プロジェクトで毎月行ってきたハイキングのひとつとしてやりましょう」ということで実現したのです。土曜日だったせいか若い人たちの参加が多くて良かったです。

9時50分に出発し、きれいなブナの森をゆっくり歩き、ちょうど12時に頂上に着きました。雄国沼も見えて全員大喜び。午後2時10分にバスの駐車場に戻り、南相馬の方たちは温泉へ。皆さん明るい顔で帰ってゆくのを見送り、私たちもそれぞれに車で帰りました。 ・・・』

感謝以外に言葉はない。改めて、田部井さん、HAT-Jとタベイ企画の皆様には大変お世話になりました。そして、本当にありがとうございました。

今回のイベントでは、山岳界においては超有名な人物をお招きすることができた。それはそれで、もちろん有意義なことであったのだが、同時に私は「これからこの街は何が大切で、何が必要なのか」ということを改めて考えさせられた。そして、その疑問は誰もが思っていることで、この地を訪れる人たちのほぼ全員に尋ねられる問いでもある。

震災の爪痕が残り、原発事故で復興の進まないこの場所において、繰り返しになるが「これからの南相馬市は何を目指して、何をすべきなのか」と。

結論ではないのだが、登山家や作家、音楽家、料理家、芸術家、俳優、歌手、フィルムメーカーなんでもいいのだが、まだまだこの土地には技能やスキルを届けてくれる人が必要だ。ただ勘違いして欲しくないのは、これからのこの街は、「援助してもらおう」というスタンスではない。私たちのような住民が、県外から来た支援者の活動に参加することで、来てくれた人たちに対しても同等に「良かった」と感じてもらいたいということである。

支援者と被支援者という関係ではなく、仲間として、あるいは堅苦しい言い方をするなら、日本の再生・復興・刺激のための“同志”として一緒に活動し、その技術を披露してもらいたいということである。与えてもらうのではない、共に学ぶのである。

そういう意味では、私は山岳家たちの制御を効かせた行動というものが大変勉強になった。

南相馬市は、自分の活動や考えていることを、――言い方によっては語弊を生むかもしれないが――トライできる場所である。さまざまなことを試み、そのなかで残っていく活動が、この街で求められていることなのである。私の行っている“木工教室”や“登山”は残るかもしれないが、“エッセイ教室”や“ラジオトーク”は、役目を終えて終息していくかもしれない。きっと、街の再生とはそういうものなのだろう。

これからも多くの人たちに、「元気を届けに」ではなく「共に楽しむ」ために、そして大袈裟に言うなら「生きるスキル」を届けるために、この南相馬を訪れてもらいたい。

今回の記事は転送歓迎します。その際にはMRICの記事である旨ご紹介いただけましたら幸いです。

MRIC by 医療ガバナンス学会 http://medg.jp

第614話 凱旋門賞とキズナ

 

 
世界最高峰の競馬のレース「凱旋門賞」が10月6日(日曜)パリのロンシャン競馬場で行われる。

日本からは昨年のこのレースの2着馬・オルフェーヴルと、今年の日本ダービーの勝馬・キズナの2頭が出走する。

両馬とも9月に現地で行われたレースに勝ち、世界一に向けて順調な仕上がりを見せている。

キズナに騎乗するのはベテランの武豊騎手。武豊騎手は震災後、福島競馬場にいち早く駆けつけて、支援を申し出てくれた。

7年前にはキズナの父・ディープインパクトで凱旋門賞に挑戦したが、3着入線後、失格となる苦い経験をしている。

その武豊騎手がレースで着る勝負服を仕立てたのが、福島競馬場脇に店を構える「河野テーラー」の社長・河野正典さん(41)。

震災後、福島の勝負服は縁起が悪いと、注文が激減した。その時、支えてくれたのが、武豊騎手を始めとする騎手の皆さんだった。

「震災前は、私の勝負服が1着でゴールを駆け抜ける事しか考えていませんでしたが、今は事故 なく無事にゴールしてくれる事を願っています。キズナの馬主さんの前田さんは、日本ダービーをキズナで優勝した後、福島市に多額の支援金を贈って下さいました。キズナが凱旋門賞を勝って、世界にキズナの意味を知ってもらいたいと思っています。私は心を込めて、武豊騎手が着るキズナの勝負服を2着作りました」と、河野さんは静かに語った。

先行するオルフェーヴルを最後の直線でとらえたキズナが優勝!2着オルフェーヴル。

その時は、フランス産ワインで一人乾杯しよう。

※オルフェーヴルの勝負服は、現地のエルメスが仕立てる。

※キズナの勝負服を2着作ったのは、盗難が多い為。

第613話 県の対応

 

 
東京電力福島第一原子力発電所の汚染水流失問題で、福島県は東京電力の幹部を県庁に呼んで、厳重抗議をした。

しかし、汚染水問題は国が全面に出て対処すると言明したはず。責任は国にある。

事故対応に奔走しなければならない東電幹部を県庁に呼んで、パフォーマンス的な抗議をするのではなく、国の原発対応責任者(石原環境大臣等)を呼んで、命懸けの抗議をして欲しい。

国が来ないなら、知事が東京にすっ飛んで行って、机を叩いて抗議するのが当たり前ではないだろうか。

県の対応には、心がない。

第612話 西会津娘

 
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ご近所の金木犀が、秋の香りを漂わせています。

甘い匂いに誘われて金木犀に近づくと、そこには先客がいました。蝉の脱け殻です。

金木犀は本当に、いい匂いですが、1週間もお風呂に入らないと「金も臭せい!」になりますからご注意下さい。

除染した我が家の庭には夏の花「瑠璃菊」が懸命に紫の花を咲かせています。

花言葉は「清らかな乙女」です。

第610話 伊江島からのお客様

 
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沖縄県伊江島から、震災後の福島の現状を知りたいと、伊江村役場の皆さんが、ラジオ福島のスタジオを訪れました。

一行は、島袋村長他10名で、ラジオ福島の本多社長と懇談したあと、私が福島県の現状を%1時間に渡って、説明させてもらいました。

伊江島は、沖縄本島から近く「美ら海水族館」から、正面に見える島です。

人口は5千人。沖縄戦では、島民も含め3千5百人が犠牲になった激戦地です。

住民の「集団自決」や日本軍によってスパイ視された住民の「処刑」など、悲惨さを極めました。

伊江島の戦中・戦後の歴史は、1943年の日本軍飛行場建設時の住民徴用から始まり、激しい戦闘、戦後の強制住民移動、米軍の強制土地接収、基地被害などまさに「沖縄戦の縮図」と言われています。

その伊江村では震災後、夏休みを利用して福島県の子供達を 多数、12泊の長期に渡って受け入れてきました。

3年目の今年も、これまで通り、福島県の子供達を受け入れ、地元の子供達との交流を行いました。

その中で、役場の職員が言いました。「この子供達の故郷・福島県を直に見て、これから伊江村がどのような支援が出来るかを、真剣に考えたい」と。

そして実現したのが、今回の福島訪問でした。

震災から2年6ヶ月を1時間で語り尽くすのは無理でしたが、伊江村の皆さんは、メモを取りながら時には涙を流しながら私の話を聞いて下さいました。

私の講演後、多くの質問が出されました。

「原発はいつ収束するのか」「本当原発は、コントロールされているのか」「仮設住宅での生活はどのようなものなのか」「子供達を福島県で生活させていても丈夫なのですか」「除染は効果があるのか」「福島の食品は安全なのか」

別れ際、伊江村の島袋村長が言いました。「沖縄の基地も、福島の原発も国策で推し進められてきました。それが今、住民の思いとは別に、立ち行かなくなっています。

国が認めた普天間基地に新しく配備されたオスプレイの影響で、3千5百回の飛行訓練が増えました。その下にいる私達の平穏な暮らしを、国は全く保証してくれません。今日、大和田さんに聞いた福島の現状を伊江島の人達にきちんと伝え、私達がこれから福島の子供達の為に何が出来るかを考えて行きたいと思います」と。

福島の苦しみや不安、怒りを発信する事も大切ですが、沖縄の抱える基地問題を他人事としてはいけないと強く思いました。

伊江島の皆さんのご支援に、心から感謝申し上げます。ありがとうございます。