第1話 原発事故さえなかったら

須賀川の専業農家を訪ねた。

ご主人のAさん(64)は、昨年3月24日(木曜)自宅裏の木にロープをかけ自ら命を絶った。

第一原発爆発後、県内で最初の自殺者だった。

A さんは責任感の強い真面目な人だった。

その行動力は誰もが認めるところで、4月からはこの地域の区長になる事が決まっていた。

専業農家七代目のA さんは米、キュウリ、キャベツ、トマト、ピーマンなどを生産し、積極的に有機農法を取り入れ、安全安心を貫いていた。

あれから1年半。

A さんの家族から、何故A さんが死を選んだのかを聞いた。

時間は30分、録音はしないという約束で。

家族によるとA さんは、筋金入りの反原発論者だった。

8月6日には、広島平和記念式典にも出席したこともある。

唯一の被爆国で、核の恐ろしさを十分知っているはずの日本が、原発に頼っていることをいつも憂えていた。

「原発に何か起きたら、農家は食っていけない。そうしたら農業がダメになる。農業は日本の基幹産業。原発事故が起きたら国は滅びる」がA さんの口癖だった。

東京電力福島第一原子力発電所の事故以来、A さんはほとんど眠れなくなっていた。

最も恐れていた事が現実のものとなったからだ。

「空気、水、土地を汚された、このままでは福島の農業がダメになる!」

しだいに家族との会話も減っていった。

高校生の孫娘と交わしていた携帯のメールも途絶えるようになった。

死の前日、2011年3月23日(水曜)、一枚のFax が届いた「明日からキャベツ出荷停止」

それを見てA さんは言った「原発事故さえなかったら」

家族が聞いた最後の言葉だった。

翌朝7時、次男(37)が、変わり果てた父の姿を発見した。

遺書はなかった。

家族も親戚も地域の人達も、A さんの死を受け入れられなかった。

震災直後、斎場は使えなかった。

水も出ない自宅での葬儀となった。

地域の人達の協力で何とか送る事ができた。

「原発事故さえなかったら」

その言葉を国や東電に届ける為に、妻はAさんの遺影を持って、何度も東京を訪れた。

県選出国会議員は誰も会ってくれなかった。

対応した秘書は皆、「必ず議員に伝えます」と回答した。

東京電力の対応の悪さに次男は「ふざけるな!」と声を荒げる場面もあった。

マスコミは、センセーショナルに取り上げた。

A さんの思いを正確に伝えないメディアに、家族は不信感をつのらせていった。

須賀川の自宅に弔問に来た東京電力の社員が言った「A さんの自殺の原因が、原発事故であることは認めます。しかし、損害賠償については法律がないのでお支払いは出来ません」

その頃、A さん家族の陳情に、金が目的だという声がきかれるようになった。

悲しくて、悔しくて、涙が溢れた。

遺影に手を合わせ妻は言った「父ちゃん、すまない」

それを見て次男が言った「俺がこの土地を守る。親父の後は俺が継ぐ」

サラリーマンを辞めて次男が農家を継いだ。

八代目となった。

次男が言った「農家を継いで親父の気持ちが良くわかる。原発事故の影響で苦しむ農家の現状を、国や県や東電にちゃんと伝えないと、福島の農業は崩壊する。

昨年、5キロ1500円だったキュウリが今年は500円。3分の1の値段。1本にすると2円。それをスーパーでは1本30円で売っている。

福島の野菜は競りも最後にかけら、安く買いたたかれ、何倍もの値段で売られる。このシステムを変えないと、福島の農家は食っていけない。

原発事故の放射能では誰も死んでいない。これからも誰も死なないって、誰か言ったよね。

ふざけるな!

うちの親父は原発事故の犠牲者だって事を忘れないで欲しい。

何で親父が自殺したか、忘れちゃいけないんだ」

「原発事故がなかったら」

A さんの妻に聞いた、国や東電に望むことは?

「先ず、原発事故を収束させ、再稼働を止めること。後は農家への補償を速やかに行い、農業に夢と希望を与えること。それができなければ、福島の農業は終わりだ!農家なんか誰も継がない」

「主人は今、死んじまった事を絶対に後悔している。あやまっちまったな、まだ生きてやらなきゃいけないことが沢山あったな~って、だから毎朝線香に火つけて言ってやる、バカやろ・って」

『原発事故さえなかったら』

その言葉が重くのしかかる。

取材時間は2時間を超えていた。